屋上に集まったのは、昼間のうだる暑さを忘れるような夜風が吹き抜ける時間だった。煌生は両手で大きな木製グライダーを抱え、深呼吸を繰り返していた。隣で凪紗が椅子に腰かけ、心音計を握りしめている。胸元の表示は安定しているが、その表情には緊張と期待が混じっていた。
 「準備は?」拓朗が問いかける。
 「風向き、北東。無問題」真紀が星図を広げ、スマホで風を測定する。
 「発射台もオーケー」拓実が頷き、麻友は周囲を見回して安全を確認した。
 煌生はグライダーの機体に触れた。昼間のテストで失速した理由を克服するため、発射台のバネを調整し、翼の角度を変更している。白い翼には蓄光塗料が施され、夜空を描くためのLEDも取り付けられていた。
 「凪紗、見届けてくれ」
 彼の声に、凪紗は小さく笑ってうなずいた。
 カウントダウンが始まる。
 「3、2、1――発射!」
 弾かれたグライダーは夜風を裂き、力強く浮き上がった。青白い光が尾を引き、真紀の広げた星図どおりの軌跡を描く。仲間たちが息をのむ中、煌生は発射台を握る手を強く握りしめていた。
 「いけ……!」
 グライダーは高度を増し、町の灯りを越えて空に舞い上がった。凪紗の視線が光を追いかける。彼女の胸が大きく上下し、目には涙が浮かんでいた。
 「届いた……」小さくつぶやくその声に、煌生の胸が熱くなる。
 着地は遠く校庭の外れ。駆け寄った拓朗が笑いながら叫ぶ。「成功だ!」
 「凪紗、見た?」麻友が息を弾ませる。
 凪紗は涙を拭いながら笑った。「すごい、ほんとうに星みたいだった」
 その夜、煌生は一人で屋上に立っていた。ポケットのスマホからは、あの心音が流れている。
 ――トン、トン、トン。
 凪紗がここにいないことが、どうしようもなく寂しいのに、鼓動は確かに生きていた。
 「見てたか?」煌生の声は風に消える。それでも言葉を止めなかった。「お前が言った空は、こんなにも広いんだな」
 ドアが開き、拓朗たちが駆け上がってきた。
 「またひとりで飛ばす気だったろ」麻友が半ば呆れた声を出す。
 「ごめん。でも、みんなで飛ばしたい」煌生が笑うと、誰も文句は言わなかった。
 再びセットされた二号機は、昨日よりもさらに磨かれている。拓実が最後の確認を終え、真紀が星図を広げた。「北東、問題なし」
 「じゃあ、飛ばそう」
 カウントダウンが始まる。
 「3、2、1――発射!」
 グライダーは夜空を切り裂き、まっすぐに北東の空へ向かう。青白い光が尾を引き、星々と重なってひとつの線になる。まるで凪紗の願いが夜空の地図になったかのようだった。
 「届いたな」拓朗が呟く。
 「うん……届いた」麻友も泣き笑いし、真紀はファインダー越しにその光景を追いかけていた。
 煌生は胸に手を当てた。心音が自分のものと重なり、涙がこぼれる。
 (ありがとう、凪紗。これが俺たちの翼だ)
 深夜の帰り道、煌生は足を止めた。街灯に照らされたアスファルトに、さっきまでの光跡が残像のように浮かぶ気がした。
 スマホから流れる心音は相変わらず規則正しく響く。
 「お前の鼓動が、まだ俺の中にある」
 寮に戻ると、机に凪紗の描いた星図を広げた。光の尾を記録した写真と照らし合わせると、驚くほど正確に一致していた。
 「すげえよ……お前の予測どおりだ」
 翌朝、仲間たちも同じように写真を見つめていた。麻友がぽつりと呟く。「これ、凪紗に見せたいね」
 「見せられるさ」拓朗が答える。「今夜、もう一度飛ばそう」
 拓実が即座に頷き、真紀は笑った。「星の位置、全部調べ直す」
 その夜、屋上には昨日よりも多くのクラスメイトが集まっていた。誰も言葉にはしなかったが、凪紗のためだという思いが一つになっていた。
 煌生が号令をかける。「3、2、1――!」
 光の翼は再び夜空に舞い上がり、凪紗の星図の線をなぞっていく。その軌跡は昨日よりも長く、美しかった。
 「これで……届けられたよな」煌生は声を震わせた。
 拍手が自然に広がり、誰もが涙をぬぐっていた。
 拍手が止むと、誰もがしばらく言葉を失っていた。夜空にはまだ光の尾が残り、まるで凪紗がそこにいるようだった。
 「……ありがとう」煌生は空に向かって呟いた。「届いたよ、凪紗」
 そのときポケットのスマホが震えた。画面には、凪紗から送られてきた未送信メッセージが表示されていた。
 『空、届いたら教えてね。私、窓から見るから』
 胸の奥が熱くなり、煌生は泣き笑いしながら返信した。
 『今、届いたよ。みんなで飛ばした。すごくきれいだった』
 送信ボタンを押した瞬間、心音の録音が鳴り出した。あの日の約束が、音となって蘇る。
 「なあ、凪紗。俺……もう逃げない。お前の空を、もっと広げる」
 仲間たちもまた涙を拭いながら笑った。
 「次はどこまで飛ばす?」拓朗が問う。
 「世界の果てまで」煌生は迷いなく答えた。
 誰もが笑い、泣き、そして夜空を見上げた。
 その空の向こうで、きっと凪紗が微笑んでいる――誰もがそう信じていた。