秋が深まると同時に、凪紗の命日が近づいていた。朝の空気は澄んでいるのに、胸の奥は重かった。煌生は教室の窓際に座り、ノートの端に小さな羽根の絵を描いていた。
 そこへ麻友が声をかけた。「ねえ、明日……空、見に行かない?」
 拓朗も加わり、「グライダー、まだ屋上に置いてあるんだろ?」と言った。
 真紀と拓実も自然と集まり、放課後、五人は屋上に向かうことを決めた。
 夕方の屋上は風が強く、フェンスが小さくきしんでいた。グライダーは布をかぶされ、埃をかぶっていた。煌生はその布をゆっくり外し、翼を撫でた。
 「久しぶりだな」
 指先に伝わる冷たさが、あの夏の記憶を一気に呼び起こした。凪紗の笑顔、震える手、そして最後の光の軌跡――。
 麻友が静かに言った。「このままにしとくの、もったいないね」
 拓朗が頷き、拓実が少し考えてから言った。「飛ばそうか。あの日と同じように」
 真紀が空を見上げ、「風、いいよ。きっと飛ぶ」と言った。
 グライダーを発射台に乗せると、全員が自然と息を詰めた。煌生がレバーを握り、仲間の顔を順番に見渡す。
 「行くぞ」
 カウントダウンの声が、夕焼けに溶ける。
 「三、二、一……発射!」
 グライダーが風を切り、滑らかな弧を描いて空に昇った。夕日に照らされ、翼の蓄光塗料が淡く光る。みんなが無言で見上げ、煌生の胸に熱いものがこみ上げた。
 (見てるか、凪紗……俺たち、まだ飛んでるぞ)
 やがてグライダーは緩やかに失速し、フェンスの向こう側の校庭に着地した。
 「完璧だな」拓朗が笑い、麻友は涙をぬぐった。
 真紀が静かに言った。「ねえ、あの時の音、覚えてる? 風を切る音。凪紗の心拍と一緒だった」
 煌生は深く頷いた。「忘れられないよ」
 夜になり、五人は教室で集まり、机を囲んで座った。拓実が小さな紙袋を出す。
 「これ……みんなで作った記念」
 中には、グライダーの翼を切り出した木片を加工した小さなキーホルダーが入っていた。
 煌生はそれを手に取り、しばらく言葉を失った。
 「……ありがとう」
 窓の外には無数の星が広がっている。煌生はポケットから凪紗のノートを取り出し、ページをめくった。最後の一文が目に飛び込む。
 〈空は続いている。次は君が飛ぶ番〉
 胸の奥が熱くなり、自然に涙があふれた。
 拓朗が肩を叩き、麻友が微笑み、真紀と拓実が静かにうなずいた。
 「行こう、これからも。俺たちはまだ、飛べる」
 その言葉に誰も反論しなかった。五人の視線が重なり、夜の静けさの中で心臓の鼓動が一つになった。
 放課後、五人は校庭のベンチに腰を下ろしていた。日が沈むまでまだ時間があるが、校舎の影はすでに長く伸びている。麻友がそっと声を出した。
 「みんなで集まるの、久しぶりだね」
 拓朗がうなずき、拓実が飲み物の自販機のカップを渡す。「こうして座ってると、あの夏のことが昨日みたいに思える」
 煌生は視線を下げ、手元のカップを握ったまま言った。「俺さ、あの日、最後に凪紗に何も言えなかったんだ。ありがとうも、さよならも」
 麻友が黙って頷き、真紀が柔らかく微笑んだ。「でもさ、凪紗は全部分かってたと思うよ。だからあんな顔で笑ってたんだと思う」
 夜になると、五人は旧校舎の屋上に再び戻った。風が強まり、遠くの街灯が淡く揺れている。煌生はフェンスに手を置き、目を閉じた。
 (凪紗、俺たちはまだここにいる)
 拓朗が声をかける。「なあ、あの星、凪紗が見たやつだよな?」
 指差す先には夏の終わりに凪紗が描いていた星座があった。煌生はその星をしばらく見つめていたが、やがて小さく笑った。「……ああ。ちゃんと覚えてる」
 そのあと、五人は教室に戻り、机を円形に並べた。拓実が取り出したスケッチブックには、新しいグライダーの構想が描かれていた。
 「この前のより軽くて、バランスがいい」
 麻友が工程表を見ながら言った。「冬休み前に完成させられるかもね」
 真紀がにっこり笑ってうなずいた。「風のデータ、また取っておくよ」
 煌生はその図面に視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。「……ありがとう。俺、やっぱりやりたい。凪紗の分も、もっと遠くへ飛ばしたい」
 拓朗が拳を軽く突き出し、拓実が笑みを見せた。「じゃあ決まりだ」
 その夜、帰宅した煌生は机に向かい、凪紗のノートをもう一度開いた。ページの隅に残った小さな心拍リズムを指でなぞる。
 「凪紗、聞こえてるか。俺たち、まだ飛んでるよ」
 窓の外には冬の星座が瞬いていた。
 次の日曜日、五人は町外れの河川敷に集まった。新しい設計で組み直した小型グライダーの初飛行の日だった。冬の空気は冷たいが、陽射しは柔らかく、吐く息が白く広がってはすぐ消えていく。
 拓朗が最後のチェックを終え、「準備完了」と笑った。麻友が工程表を閉じ、真紀が風速計をかざして首を振った。「少し向かい風だけど、飛ばせないことはない」
 拓実が補助翼の固定を確認し、煌生は発射台の横に立った。
 「じゃあ、行くぞ」
 全員の声が重なる。レバーを引くと、翼が音もなく浮き上がり、冬の澄んだ空に白い線を描いて進んでいった。
 「すげぇ……」拓朗が声を漏らす。グライダーは高く舞い上がり、風に乗って川の上空を滑空した。
 煌生は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。凪紗が見ていたら、どんな顔をしただろう。きっと笑ってくれるに違いない。
 「見てるか、凪紗!」
 無意識に声を張り上げていた。
 飛行を終えたグライダーは無事に着地し、みんなが拍手をした。拓朗が笑い、「完璧だな」と言い、真紀は静かに空を見上げた。
 「なんかさ、あの時と同じ匂いがする。風の匂い」
 麻友は目元を拭い、「あの子、本当にここにいるみたい」と呟いた。
 帰り道、煌生は足を止めて空を仰いだ。暮れかけた西の空に一番星が輝いている。ポケットの中の凪紗のノートを握りしめ、深く息を吸い込んだ。
 (俺たちはまだ飛べる。これからもずっと)
 家に戻った煌生は、机に広げた凪紗のノートに視線を落とした。端に貼り付けられた星図、そしてその横に走り書きされた一文。〈風をつかまえたら、きっとどこまでも行ける〉。
 ページを閉じると、不意に涙がこぼれた。もう彼女はいないのに、言葉だけが、未来へ進めと背中を押してくれる。
 その夜、グループチャットにメッセージが飛んできた。拓朗からだ。〈次はもっと大きいやつを作らないか?〉。
 麻友がすぐに〈賛成〉と返し、真紀が〈風の記録も続けておく〉と打ち込んだ。拓実は〈部品調達できる〉と頼もしい返事を送った。
 煌生はスマホを握ったまま、長く息を吐いた。〈やろう。凪紗の夢を、まだ終わらせない〉と打ち込み、送信した。
 窓を開けると、冷たい風が吹き込んだ。遠くの空に冬の星座が瞬き、まるで凪紗が笑っているように見えた。
 (俺たちは、まだ飛べる。きっと、どこまでも)
 翌朝、煌生は早くに目を覚ました。凪紗と一緒に見上げた空が頭に浮かび、胸が温かくなった。学校に着くと、仲間たちも同じ気持ちだったのか、自然と屋上へ向かっていた。
 冬の風は冷たく、制服の裾を揺らして頬を刺した。けれど、その冷たさが妙に心地いい。
 拓朗が新しいグライダーの図面を掲げる。「これ、次のやつ。もっと高く、もっと遠くへ」
 麻友は笑い、真紀は黙って空を見たまま頷き、拓実は部品リストを広げた。
 「行けるな」煌生の声は自然と強くなった。「俺たちはまだ飛べる」
 フェンス越しに広がる冬の青空は、どこまでも澄んでいる。その空を見つめながら、煌生は小さく呟いた。「見ててくれ、凪紗」