夕方の校庭には、まだ夏の名残を感じさせる熱気が漂っていた。放課後のチャイムが鳴り終わると、煌生は鞄を肩にかけたまま旧校舎へ向かった。階段を上がるたびに、壁のひび割れや色あせた標識が目に入る。何度も通ったはずなのに、今日は特別に重みを感じた。
 屋上の扉を押し開けると、風が一気に吹き込んだ。拓朗と麻友、拓実、真紀がすでに待っていた。中央には、今日で最後の調整を終えたグライダーが置かれている。
 「来たな」拓朗が短く言った。
 「発射台の確認は?」煌生が問いかけると、拓実が工具を握ったままうなずいた。
 「完璧だ。もう落ちない」
 「風向きも安定してる」真紀が風速計を見ながら答えた。麻友は進行表を手にして、静かに息をついた。
 煌生は一歩前に出て、全員を見渡した。
 「ありがとう。ここまで一緒にやってくれて」
 「今さら何言ってんのよ」麻友が笑い、真紀も口元を緩めた。拓朗は肩をすくめながらも表情は真剣だった。
 グライダーの表面には、凪紗のノートを参考に描いた星図が貼られている。北東の空に向かって滑空するための目印だ。煌生はその翼にそっと手を置いた。
 「……行こう」
 発射台にグライダーを載せ、煌生はレバーを握った。汗ばむ手のひらをズボンで拭う。夕日が沈みかけ、空は橙と群青の境目で揺らめいている。
 「三、二、一……発射!」
 グライダーが音もなく宙に舞い上がり、翼に塗った蓄光塗料が夕闇に白い軌跡を描く。北東の空へ向かい、流星のように滑空した。全員が言葉を失い、ただその光景を目で追った。
 風の音だけが残る。煌生の胸にこみ上げてくるものがあった。
 (届いたな……凪紗)
 拓朗が肩を叩く。「やったな」
 麻友は目頭を押さえ、真紀は小さく笑った。「きれい……」
 拓実は黙って空を見上げていたが、その目は赤かった。
 夜、煌生は机に向かって凪紗のノートを開いた。ページの端に残された小さな字。
 〈空は続いている。次は君が飛ぶ番〉
 その言葉を見つめながら、ゆっくりとペンを取り、日記に一行書き加えた。
 〈負けてもいい。大切なのは誰かと一緒に飛ぶこと〉
 翌朝、校門の前で足を止めた煌生は、昨日の飛行の余韻をまだ胸に抱いていた。耳の奥には、翼が空を切り裂いた音が残っている。
 教室に入ると、机の上に一枚のコピー用紙が置かれていた。担任がクラス全員に配ったもので、凪紗のノートから抜粋されたページだった。
 〈未来は飛ぶもの。だから、あなたも飛んで〉
 手書きの丸い文字を見た瞬間、胸が熱くなった。
 授業が始まっても、紙を握る手は汗ばみ続けていた。昼休み、拓朗が隣に腰を下ろした。
 「お前、進路どうするんだ?」
 「……決めたよ。航空工学だ」
 拓朗は目を丸くし、それからゆっくり笑った。「いいじゃないか」
 放課後、五人は再び屋上に集まった。もうグライダーはない。それでも屋上に立つと、昨日の光景が鮮やかに蘇る。
 「俺さ、今まで競争が嫌いで逃げてた。でも、昨日は……初めて全力を出した気がする」
 煌生の声に、麻友が小さく笑った。「凪紗も、きっと喜んでる」
 真紀は空を見上げて言った。「また飛ばそうよ。光る翼を」
 拓実が短くうなずき、拓朗が拳を差し出す。五人の拳が重なった瞬間、風が頬を撫でていった。
 その夜、煌生は机に向かい、凪紗のノートをもう一度開いた。ページの隅にあった小さな心拍リズムの図を指でなぞる。
 「届いたよ。ちゃんと届いた」
 涙がこぼれ、紙に滲んだ。
 窓の外には、昨日と同じ星が光っていた。
 週末、煌生は一人で旧校舎に向かった。屋上への階段を登る足取りは迷いがなく、扉を押し開けた瞬間に秋風が吹き込んだ。フェンス越しに広がる空は高く澄んでいる。
 昨日まで仲間と笑い合った声が耳に残っていた。だが今日は一人だった。
 ポケットから凪紗のノートを取り出し、表紙を撫でる。角のすり切れが彼女の努力の証のように思えた。ページを開くと、未完成の設計図や「空を飛ぶ方法」のメモが目に飛び込んでくる。端に小さく描かれた翼のスケッチを見て、思わず笑みがこぼれた。
 「お前、どこまで行く気だったんだろうな」
 そのとき、後ろでドアが開く音がした。拓朗たちがそろって立っていた。
 「やっぱり来てると思った」真紀が笑う。
 「一人で考え込むなよ」拓朗が肩を軽く叩いた。
 「いや……ちょっとだけな」煌生は照れくさそうに笑った。
 麻友が言った。「あのグライダー、町の掲示板に載ったよ。写真撮られてた」
 「マジか?」
 「『光る翼、夜空を翔ける』って見出しでさ。見たやつみんな泣いてたって」
 その言葉に胸が熱くなる。凪紗の願いが本当に届いた気がした。
 「なあ、俺たちでまた何か作らないか?」拓実が静かに口を開いた。
 「今度はもっとでかいのをさ」
 煌生はしばらく黙り込み、やがて笑った。「いいな、それ」
 五人はフェンスに寄りかかり、しばらく空を見上げた。遠くで鳥の群れが一斉に舞い上がり、秋の陽射しに銀色の羽が輝いた。
 煌生は胸の奥で小さく呟いた。
 「凪紗、聞いてるか? 次は、俺たちの番だ」
 日曜日の朝、煌生は再び屋上に立っていた。昨日まで仲間と共にいた場所は、ひときわ静かだった。ポケットからスマートフォンを取り出し、凪紗が最後に送ってくれたメッセージを開く。
 〈空を見て、そこにいるって信じて〉
 短い言葉だったが、何度も読み返して擦り切れるほどだった。
 屋上のフェンス越しに見える町並みは、朝日に照らされて黄金色に染まっている。煌生は大きく息を吸い込み、目を閉じた。
 (ここからまた始めよう)
 放課後、拓朗からメッセージが届いた。
 〈例の計画、進めていいか?〉
 短い文に笑みがこぼれる。〈もちろんだ〉と返すと、すぐに既読が付き、スタンプが返ってきた。
 その日の夕方、五人は再び集まった。新しい翼の設計図を囲みながら、拓朗が言う。
 「今度はもっと安定性を重視する。凪紗の星図を完全に再現しよう」
 真紀は風向データを表示し、麻友はスケジュールを組み、拓実は必要な部品リストを作っていた。
 煌生は手を動かしながら、胸の奥で小さく呟いた。
 (負けてもいい。でも、逃げない。これが俺の答えだ)
 その夜、日記の最後のページに一文を加えた。
 〈空は続いている。だから、僕らは飛び続ける〉
 次の週末、五人は資材置き場に集まった。町内の工務店が協力してくれたおかげで、材料は十分にそろっている。拓朗が図面を広げ、拓実が角材を運び、麻友と真紀が部品を仕分けた。煌生は工具を手に取りながら、仲間の姿をじっと見つめていた。
 「こうして動いてると、あの夏を思い出すな」
 「だな。でも今回はちゃんと飛ばすぞ」拓朗が笑う。
 真紀が風向データを更新しながら言った。「冬の風は強いから、補助翼を追加した方がいい」
 「了解、角度も変えよう」拓実が即座に返す。麻友はスケジュールに赤ペンを入れ、作業工程を組み直した。
 その日の作業は夜まで続いた。煌生は疲れを感じながらも、心地よい達成感に包まれていた。凪紗が見ていたら何と言っただろうか。きっと、あの時と同じ笑顔で「すごい」と言ってくれたに違いない。
 夜空に一番星が輝くころ、作業を終えた五人は屋上に登った。誰もが無言で空を見上げ、冷たい風を頬に受けながら立ち尽くす。煌生は深呼吸して言った。
 「絶対に飛ばそう。今度は俺たちの力で」