四月の朝、東の空がまだ淡く霞んでいる頃、三ヶ丘中学校の校門をくぐる風が、わずかに冷たさを残して頬を撫でた。始業式の日。昇降口に並んだ新しいスニーカーの列を横目に、煌生はひとりポケットに手を突っ込み、のんびりと歩いていた。
教室のドアを開けると、すでに半分以上の生徒が席についていた。ざわめきの中で担任が黒板に大きく「一年の目標を書こう」とチョークで記し、机の上には白紙の用紙が配られている。
「これ、何書けばいいんだよ……」
煌生は誰にともなく呟き、配られた紙を指で弾いて丸めた。どうせ競争だの成績だの、他人と比べる話になるのだろう。そんなことに興味はなかった。
紙をゴミ箱へ投げようとした瞬間、隣の席の凪紗がその腕を掴んだ。
「待って、それ、捨てないで」
透き通った声。振り向けば、彼女の瞳は真剣にこちらを見ている。
「目標がないなら、私の見る?」
凪紗は自分の用紙を差し出した。真ん中には太いペンで〈空を飛ぶ〉と書かれていた。
「……飛行機のパイロットになりたいのか?」
「違うよ。自分で空に行きたいの」
煌生は苦笑して肩をすくめる。冗談みたいだが、凪紗の表情は本気だ。
「どうやって?」
「それを考えるのが目標」
そう言って彼女は少しだけ笑った。だが、その指先は机の端を握りしめて震えているのを煌生は見逃さなかった。
始業式が終わると、教室は部活の勧誘や久しぶりの友人との会話で賑わった。煌生は窓際で頬杖をつき、校庭に舞う春の風を眺める。隣で凪紗が小声で囁いた。
「屋上、行こう」
彼女に連れられて旧校舎の階段を上る。鉄製の扉を開けると、風が一気に吹き抜けてきた。
「ここ、いい風通るんだね」
凪紗は手を広げて目を閉じる。白い指先が空を掴むように揺れ、頬の色がわずかに薄い。
「空に行きたいって、なんでそんなこと……」
煌生が問いかけると、凪紗は胸元を押さえながら笑った。
「私ね、十五歳の夏までにやりたいこと全部やろうって決めてるの」
「なんで期限?」
「……理由は内緒。でも、だから早くやらなきゃ」
彼女の視線は遠く、春の霞を越えた向こうを見ていた。煌生は何も言えず、ただ風に髪を揺らされる彼女を見つめた。
帰り道、煌生は頭の中で何度も「空を飛ぶ」という言葉を繰り返していた。競争なんて嫌いだ。順位を争う意味もわからない。でも、あの笑顔と揺れる指先が離れない。
翌日の放課後、煌生は折り紙を一枚手に取っていた。紙飛行機だ。子どものころから作り慣れた形だが、今日は特別な気がする。
「飛ばしてみようか」
屋上で待っていた凪紗が目を輝かせた。
「ねえ、もっと遠くまで飛ばす方法、考えてくれない?」
その声は期待に満ちていて、煌生は肩をすくめながらも頷いてしまう。
紙飛行機は風を切り、青空に吸い込まれていった。その軌跡を見ているうちに、煌生は初めて「勝ち負けじゃない何か」を探してもいいかもしれないと思った。
紙飛行機はひらりと舞い、少しの風に煽られて失速したが、凪紗はそれを見て楽しそうに拍手をした。
「ほら、もうちょっと角度をつければ、きっともっと飛ぶよ」
「……詳しいな」
「昔、入院してたときね、病室のベッドからずっと窓を見てたんだ。空の向こうに行けたらって、そればっかり考えてた」
凪紗は淡い声で言いながら、校庭の先に広がる青い空を見上げた。その表情は何かを思い出しているようで、煌生は言葉を挟めなかった。
彼女は胸元を押さえて一歩下がり、笑顔を取り繕う。
「だから、この屋上、すごく好きになりそう」
煌生は少し視線を逸らした。胸の奥で言いようのないざわめきが生まれていた。自分は競争を避け、何も望まずに過ごしてきた。なのに、凪紗は命を削るような期限を自分に課している。
放課後、二人は旧校舎の階段を降りる途中で立ち止まった。窓から見える夕焼けが廊下を染め、凪紗はその光に照らされていた。
「煌生くんはさ、何かやりたいことないの?」
「……考えたことなかった」
「じゃあ、私の夢、手伝ってよ」
そう言って差し出された手は少し冷たかった。煌生は迷いながらも握り返した。
その夜、布団に潜り込んだ煌生は、昼間の凪紗の笑顔を思い出していた。彼女の笑顔の奥にある影を思い出し、心臓がざわつく。やりたいことがなくて、ただ日々をやり過ごしてきた自分と、限られた時間を燃やそうとする彼女。なぜか胸が苦しく、眠れなかった。
翌朝、校門の前で凪紗が待っていた。
「おはよ。ねえ、今日も屋上行こう」
「もうかよ」
「時間は待ってくれないんだよ」
彼女の声にはいつになく強さがあり、煌生は軽く笑いながら頷いた。二人で屋上に立つと、春風が制服を揺らした。
凪紗はスケッチブックを広げた。中には翼のような図面と走り書きのメモが並んでいる。
「昨日考えたの。紙飛行機だけじゃなくて、もっと大きなものを作りたい」
「本気なのか」
「うん、本気」
煌生は思わず吹き出しそうになったが、彼女のまっすぐな瞳を見て言葉を飲み込んだ。彼女が冗談で言っているのではないことはわかったからだ。
放課後、二人は図書室に立ち寄り、グライダーや飛行機に関する本を手にした。ページをめくる凪紗の指がかすかに震えているのを見て、煌生は無意識にその手を支えた。
「大丈夫?」
「うん、平気。ちょっと力が入りにくいだけ」
彼女の返事は軽いが、その瞳の奥には何か切迫したものが宿っている。
帰り道、空は橙色に染まり、カラスの鳴き声が遠く響いていた。煌生はふと口を開く。
「俺、あんまり勝ち負けとか嫌いなんだよな。昔、マラソン大会で転んで笑われてさ。それから競争ってものにいい思い出ない」
「でも、これは競争じゃないでしょ。空に届くか届かないかだけ」
「届くわけないだろ、普通」
「普通じゃないことをしたいんだよ」
凪紗の声は柔らかかったが、その奥に強い意志があった。煌生は言葉を失い、ただ歩幅を合わせた。
その夜、机に座った煌生は、久しぶりに真剣に紙飛行機を折った。丁寧に、角度を測り、重心を整え、何度も試行錯誤した。頭の中で凪紗の笑顔と震える指が何度も浮かぶ。そのたびに、胸の奥で小さな火が灯る気がした。
翌週の昼休み、凪紗はスケッチブックに新しい図を描いていた。
「ここに軽い骨組みを入れて、翼を広げれば……」
彼女の指先は細かく震えている。煌生は黙って横に座り、描きかけの線を見つめた。
「体調、大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。でも、あんまり時間はないかも」
彼女は微笑みながら言ったが、その表情は少しだけ寂しげだった。
昼休み終了のチャイムが鳴り、教室へ戻る廊下で、煌生は問いかけた。
「なあ、本当に空を飛ぶって、どこまで本気なんだ?」
「本気だよ。だって、夢って、逃げてたら叶わないでしょ」
その言葉が胸に残った。
夜、煌生は机に広げたノートに図面を写し、自分なりの改善案を書き込んだ。手を動かしながら、彼は自分がこんなにも真剣になっていることに気付く。競争は嫌いだったはずなのに、今は勝ち負けではなく「届かせたい」という気持ちだけがあった。
翌日、放課後の屋上で試作した大きめの紙飛行機を二人で飛ばした。翼を広げた機体は少しよろけながらも、これまでで一番遠くまで飛んだ。
「やった!」
凪紗が小さな声で叫び、両手を胸に当てて笑った。その笑顔は淡い夕日を背にして、少し涙ぐんでいるように見えた。
煌生はその横顔から目を離せず、胸の奥に熱いものを覚えた。
下校途中、凪紗はふと立ち止まって言った。
「ありがとう。私、ひとりじゃきっとここまで来られなかった」
「まだ始まったばっかだろ」
「そうだね。でも、今がすでに大切な時間なんだ」
その言葉に煌生は返す言葉を失い、ただ隣に並んで歩き出した。
家に帰り、机に向かった煌生は静かにつぶやいた。
「俺も……やってみるか」
初めて、自分の意志で夢の手伝いをしようと心から思えた。
教室のドアを開けると、すでに半分以上の生徒が席についていた。ざわめきの中で担任が黒板に大きく「一年の目標を書こう」とチョークで記し、机の上には白紙の用紙が配られている。
「これ、何書けばいいんだよ……」
煌生は誰にともなく呟き、配られた紙を指で弾いて丸めた。どうせ競争だの成績だの、他人と比べる話になるのだろう。そんなことに興味はなかった。
紙をゴミ箱へ投げようとした瞬間、隣の席の凪紗がその腕を掴んだ。
「待って、それ、捨てないで」
透き通った声。振り向けば、彼女の瞳は真剣にこちらを見ている。
「目標がないなら、私の見る?」
凪紗は自分の用紙を差し出した。真ん中には太いペンで〈空を飛ぶ〉と書かれていた。
「……飛行機のパイロットになりたいのか?」
「違うよ。自分で空に行きたいの」
煌生は苦笑して肩をすくめる。冗談みたいだが、凪紗の表情は本気だ。
「どうやって?」
「それを考えるのが目標」
そう言って彼女は少しだけ笑った。だが、その指先は机の端を握りしめて震えているのを煌生は見逃さなかった。
始業式が終わると、教室は部活の勧誘や久しぶりの友人との会話で賑わった。煌生は窓際で頬杖をつき、校庭に舞う春の風を眺める。隣で凪紗が小声で囁いた。
「屋上、行こう」
彼女に連れられて旧校舎の階段を上る。鉄製の扉を開けると、風が一気に吹き抜けてきた。
「ここ、いい風通るんだね」
凪紗は手を広げて目を閉じる。白い指先が空を掴むように揺れ、頬の色がわずかに薄い。
「空に行きたいって、なんでそんなこと……」
煌生が問いかけると、凪紗は胸元を押さえながら笑った。
「私ね、十五歳の夏までにやりたいこと全部やろうって決めてるの」
「なんで期限?」
「……理由は内緒。でも、だから早くやらなきゃ」
彼女の視線は遠く、春の霞を越えた向こうを見ていた。煌生は何も言えず、ただ風に髪を揺らされる彼女を見つめた。
帰り道、煌生は頭の中で何度も「空を飛ぶ」という言葉を繰り返していた。競争なんて嫌いだ。順位を争う意味もわからない。でも、あの笑顔と揺れる指先が離れない。
翌日の放課後、煌生は折り紙を一枚手に取っていた。紙飛行機だ。子どものころから作り慣れた形だが、今日は特別な気がする。
「飛ばしてみようか」
屋上で待っていた凪紗が目を輝かせた。
「ねえ、もっと遠くまで飛ばす方法、考えてくれない?」
その声は期待に満ちていて、煌生は肩をすくめながらも頷いてしまう。
紙飛行機は風を切り、青空に吸い込まれていった。その軌跡を見ているうちに、煌生は初めて「勝ち負けじゃない何か」を探してもいいかもしれないと思った。
紙飛行機はひらりと舞い、少しの風に煽られて失速したが、凪紗はそれを見て楽しそうに拍手をした。
「ほら、もうちょっと角度をつければ、きっともっと飛ぶよ」
「……詳しいな」
「昔、入院してたときね、病室のベッドからずっと窓を見てたんだ。空の向こうに行けたらって、そればっかり考えてた」
凪紗は淡い声で言いながら、校庭の先に広がる青い空を見上げた。その表情は何かを思い出しているようで、煌生は言葉を挟めなかった。
彼女は胸元を押さえて一歩下がり、笑顔を取り繕う。
「だから、この屋上、すごく好きになりそう」
煌生は少し視線を逸らした。胸の奥で言いようのないざわめきが生まれていた。自分は競争を避け、何も望まずに過ごしてきた。なのに、凪紗は命を削るような期限を自分に課している。
放課後、二人は旧校舎の階段を降りる途中で立ち止まった。窓から見える夕焼けが廊下を染め、凪紗はその光に照らされていた。
「煌生くんはさ、何かやりたいことないの?」
「……考えたことなかった」
「じゃあ、私の夢、手伝ってよ」
そう言って差し出された手は少し冷たかった。煌生は迷いながらも握り返した。
その夜、布団に潜り込んだ煌生は、昼間の凪紗の笑顔を思い出していた。彼女の笑顔の奥にある影を思い出し、心臓がざわつく。やりたいことがなくて、ただ日々をやり過ごしてきた自分と、限られた時間を燃やそうとする彼女。なぜか胸が苦しく、眠れなかった。
翌朝、校門の前で凪紗が待っていた。
「おはよ。ねえ、今日も屋上行こう」
「もうかよ」
「時間は待ってくれないんだよ」
彼女の声にはいつになく強さがあり、煌生は軽く笑いながら頷いた。二人で屋上に立つと、春風が制服を揺らした。
凪紗はスケッチブックを広げた。中には翼のような図面と走り書きのメモが並んでいる。
「昨日考えたの。紙飛行機だけじゃなくて、もっと大きなものを作りたい」
「本気なのか」
「うん、本気」
煌生は思わず吹き出しそうになったが、彼女のまっすぐな瞳を見て言葉を飲み込んだ。彼女が冗談で言っているのではないことはわかったからだ。
放課後、二人は図書室に立ち寄り、グライダーや飛行機に関する本を手にした。ページをめくる凪紗の指がかすかに震えているのを見て、煌生は無意識にその手を支えた。
「大丈夫?」
「うん、平気。ちょっと力が入りにくいだけ」
彼女の返事は軽いが、その瞳の奥には何か切迫したものが宿っている。
帰り道、空は橙色に染まり、カラスの鳴き声が遠く響いていた。煌生はふと口を開く。
「俺、あんまり勝ち負けとか嫌いなんだよな。昔、マラソン大会で転んで笑われてさ。それから競争ってものにいい思い出ない」
「でも、これは競争じゃないでしょ。空に届くか届かないかだけ」
「届くわけないだろ、普通」
「普通じゃないことをしたいんだよ」
凪紗の声は柔らかかったが、その奥に強い意志があった。煌生は言葉を失い、ただ歩幅を合わせた。
その夜、机に座った煌生は、久しぶりに真剣に紙飛行機を折った。丁寧に、角度を測り、重心を整え、何度も試行錯誤した。頭の中で凪紗の笑顔と震える指が何度も浮かぶ。そのたびに、胸の奥で小さな火が灯る気がした。
翌週の昼休み、凪紗はスケッチブックに新しい図を描いていた。
「ここに軽い骨組みを入れて、翼を広げれば……」
彼女の指先は細かく震えている。煌生は黙って横に座り、描きかけの線を見つめた。
「体調、大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。でも、あんまり時間はないかも」
彼女は微笑みながら言ったが、その表情は少しだけ寂しげだった。
昼休み終了のチャイムが鳴り、教室へ戻る廊下で、煌生は問いかけた。
「なあ、本当に空を飛ぶって、どこまで本気なんだ?」
「本気だよ。だって、夢って、逃げてたら叶わないでしょ」
その言葉が胸に残った。
夜、煌生は机に広げたノートに図面を写し、自分なりの改善案を書き込んだ。手を動かしながら、彼は自分がこんなにも真剣になっていることに気付く。競争は嫌いだったはずなのに、今は勝ち負けではなく「届かせたい」という気持ちだけがあった。
翌日、放課後の屋上で試作した大きめの紙飛行機を二人で飛ばした。翼を広げた機体は少しよろけながらも、これまでで一番遠くまで飛んだ。
「やった!」
凪紗が小さな声で叫び、両手を胸に当てて笑った。その笑顔は淡い夕日を背にして、少し涙ぐんでいるように見えた。
煌生はその横顔から目を離せず、胸の奥に熱いものを覚えた。
下校途中、凪紗はふと立ち止まって言った。
「ありがとう。私、ひとりじゃきっとここまで来られなかった」
「まだ始まったばっかだろ」
「そうだね。でも、今がすでに大切な時間なんだ」
その言葉に煌生は返す言葉を失い、ただ隣に並んで歩き出した。
家に帰り、机に向かった煌生は静かにつぶやいた。
「俺も……やってみるか」
初めて、自分の意志で夢の手伝いをしようと心から思えた。



