暁の導標と羅針盤の少女

 九月半ば、明潮の海辺には夏の名残が薄れ、柔らかい風が吹き抜けていた。港の灯台は変わらずそこに立ち、青空に向かって静かに白く輝いている。

 柚は博物館の前に立っていた。入口近くの掲示板には「特別展示:明潮の海と人々の記憶」と題したポスターが貼られている。その中央には、祖母の形見だった羅針盤型のペンダントの写真。
 ――あの日、みんなで守ったものが、こうして町の宝になったんだ。
 胸の奥が温かくなる。

 「やっぱり見に来てたな」
 背後から声がして振り返ると、湊斗がいた。制服の袖をまくり、少し日焼けした腕が光っている。
 「授業終わりで直行?」
 「まあね。気になるだろ、やっぱり」
 二人で並んで館内に入ると、展示室の中央に、ペンダントが柔らかな光に照らされていた。

 千愛が既に来ていて、真剣な表情で展示パネルを読んでいる。航太は資料解説を口に出して確認しており、カロリーナとドリューは熱心に写真を撮っていた。可奈子は受付のスタッフと話し、町内の案内パンフレットを手にしている。
 「みんな、集まったんだ」柚が笑うと、湊斗も微笑んだ。
 「やっぱり、ここが俺たちの出発点だから」

 展示ケースに近づくと、ペンダントは穏やかに光を反射していた。柚は無意識に手を合わせる。
 ――おばあちゃん、見てるよね。私、もう迷わない。


 展示を見終えたあと、みんなは港近くのカフェに集まった。窓際の席からは海が見え、穏やかな波が光を散らしていた。
 「これで、ひと区切りって感じだな」湊斗がカップを置き、真剣な表情を浮かべた。
 「でも、終わりじゃないよね」千愛が笑う。「あの遺跡は眠りについたけど、私たちの未来はこれからだから」
 カロリーナが勢いよく手を挙げる。
 「そうよ! 私は次は日本以外の海も見たいな。みんなで来ない?」
 「世界中って、いきなり壮大だな……」航太が苦笑する。
 だが、その目は楽しそうに輝いていた。

 可奈子がそっと口を開く。
 「私は……この町で、誰かを助けられる人になりたい。避難の時、すごく怖かったけど、誰かに頼られたら、動ける自分でいたい」
 ドリューが感心したようにうなずく。
 「君は優しいから、きっとできるよ」
 可奈子の頬が赤くなった。
 千愛も力強く言う。
 「私も責任ある立場を目指したい。まだまだ足りないけど、今回で少しだけ成長できた気がする」
 柚はそんな仲間を見て、思わず微笑んだ。

 湊斗が視線を柚に向けた。
 「柚は? 次の目標、ある?」
 柚は少し考えてから言った。
 「人の話を聞いて、すぐ動ける人でいたい。これからも――仲間と一緒に」
 その言葉に、全員が笑顔になった。




 夕暮れが近づくと、湊斗が突然立ち上がった。
 「灯台に行かないか? あそこで、もう一度ちゃんと約束したい」
 柚が少し驚いて首をかしげる。
 「約束って?」
 「未来のことだよ」
 その一言に、全員の視線が集まった。カロリーナがすぐに笑顔で立ち上がる。
 「いいわね! 行こう行こう!」

 一同は港を抜け、灯台へと向かった。潮風が髪を揺らし、靴底が石畳を叩く音が響く。灯台の階段は急で、皆の息は上がっていたが、誰一人として足を止めなかった。

 最上階にたどり着くと、広い海と空が目の前に広がった。夕日が沈みかけ、海面は金色から朱色へと変わりつつある。
 湊斗が深呼吸をして振り返る。
 「俺、ここから先も誰かを支えられる人になりたい。だから、この町だけじゃなく、もっと広い場所でも役に立てるようにしたい」
 その言葉に、千愛が力強く頷いた。
 「私も、責任を持って動ける人になる」
 航太も静かに言う。
 「俺は正しい情報を伝えられる仕事を目指したい」
 カロリーナとドリューは視線を交わし、笑顔で言った。
 「私たちは世界を旅して学びを広めたい」「僕も同じだ」
 可奈子は少し恥ずかしそうにしながら、でもしっかりと答えた。
 「私は、困っている人を助けられる人になる」

 最後に全員の視線が柚へと向いた。
 柚はペンダントがない胸元に手を当て、静かに言った。
 「私は、人の声をしっかり聞いて、すぐに動ける私でいる。おばあちゃんが残してくれたこの町で、そしてこの仲間と一緒に」

 柚の言葉に、みんながうなずいた。風が一瞬強く吹き、柚の髪が揺れる。その瞬間、胸の奥に新しい決意が芽生えたのを感じた。
 「よし!」湊斗が笑顔で声を上げた。「じゃあ、ここで未来への約束をしよう」

 全員が輪になる。手と手を重ね、真剣な表情で互いを見つめた。
 「この先、どこにいても――」
 千愛の言葉に、みんなが続く。
 「誰も欠けず、また一緒に集まる」
 可奈子の目に涙が浮かぶ。
 「来年の夏も、きっと」
 「もっと成長して、ここに戻ってこよう!」ドリューが力強く叫び、カロリーナが笑顔で拳を掲げた。

 その瞬間、夕日が完全に沈み、夜の帳が海を包んだ。灯台の光が点灯し、遠くの海を照らしている。
 柚はその光を見つめながら、心の中でおばあちゃんに語りかけた。
 ――私は、大丈夫。もう迷わない。みんなと一緒なら、どこまでも行ける。

 しばらく無言で海を見つめたあと、全員が自然に笑い出した。言葉にしなくても、互いに伝わるものがあった。
 湊斗が小声で言った。
 「また夏が来るのが楽しみだな」
 柚も笑いながら答えた。
 「うん。次はどんな夏になるかな」

 その夜、港には灯台の光と、仲間たちの笑顔がいつまでも残っていた。

 翌朝、柚は一人で博物館を訪れた。前日に見たペンダントは、やはり変わらずそこにあったが、今日は少し違って見えた。展示ガラスに映る自分の姿が、昨日までの自分よりも強く見えたのだ。
 「おばあちゃん、ありがとう」
 小さくつぶやき、ペンダントに頭を下げる。

 外に出ると、湊斗が待っていた。
 「早いな。まさか朝一で来るとは」
 柚は笑って言った。
 「昨日だけじゃ足りなかったんだ。もう一度、ちゃんと見ておきたかったの」
 湊斗も肩をすくめて笑った。
 「じゃあ、一緒に学校行くか」

 道中、二人はこれからのことを話した。
 「俺さ、将来の進路を考えてみたんだ」湊斗が真剣な顔で言う。「町を守るための知識とか、災害対策のこととか、もっと学びたい」
 柚はうなずき、視線を前に向ける。
 「私も、人の声をちゃんと聞ける仕事をしたい。今回のことで、それがどれだけ大切か分かったから」

 校門に着くと、すでに千愛たちが集まっていた。航太は分厚い資料を抱え、カロリーナは大きな地図を広げている。ドリューは通訳アプリを見ながら、世界各国の言葉を覚えようとしていた。可奈子は保健委員会の腕章をつけている。
 「おはよう!」柚が声をかけると、全員が一斉に振り向いて笑った。

 新しい日常が始まる。だが、その胸には確かな約束が刻まれていた。


 昼休み、校舎の屋上に七人が集まった。そこから見える海は、昨日と変わらないようで、どこか新しい輝きを放っているように見えた。
 「集まるのも久しぶりだな」航太が言い、少し照れくさそうに笑った。
 「でも、こういう時間、大事だよね」千愛がベンチに腰掛けながら頷く。

 ドリューが手帳を開いた。そこには「次の夏にやりたいことリスト」がびっしり書かれている。
 「せっかくだから、計画を立てておきたい。来年も何か面白いことをしよう」
 カロリーナがすかさず顔を輝かせた。
 「海外の海、絶対に行く! ダイビングもしたいし、世界中の遺跡を見たい!」
 「お前、どこまで体力あるんだよ……」航太が呆れたように笑うが、その表情は楽しげだった。

 可奈子は静かに話し始める。
 「私ね、もっと人のためになる活動をしたいんだ。だから、地域のボランティアにも参加しようと思ってる」
 柚は優しく微笑んだ。
 「可奈子らしいね。きっと喜んでくれる人、たくさんいるよ」

 湊斗が全員を見渡した。
 「みんな、次に集まるときはもっと成長してような。昨日約束した通りに」
 柚はその言葉に力強くうなずいた。
 「うん。来年の夏、またここで!」

 七人は手を重ね、屋上で再び約束を交わした。


 その日の放課後、柚は一人で灯台に向かった。夕日が海に沈みかけ、空は橙色から紫へと移り変わっていく。灯台の最上階に着くと、静寂が包み込む中で、海風が髪を揺らした。
 ――ここから始まって、ここで終わった。でも……ここからまた始まる。
 胸の奥でそう思うと、不思議と涙がこぼれそうになった。

 階段を上がってくる足音が聞こえた。振り返ると湊斗が立っていた。
 「やっぱり、ここにいると思った」
 柚は苦笑いした。
 「私、分かりやすい?」
 「うん。でも、それが柚らしいよ」

 二人で海を見下ろした。遺跡が眠る海域には、もうあの不気味な渦はない。ただ穏やかな波が揺れている。
 「この町、変わったな」湊斗がぽつりとつぶやく。
 「うん。みんな、変わった」柚はペンダントがない胸元にそっと触れた。
 「でも、大事なものはちゃんと残ってる」

 湊斗は少し間を置き、真剣な声で言った。
 「これからも、一緒に進もう。違う道に進んでもさ、また集まれるように」
 柚はその言葉に、はっきりと答えた。
 「うん、約束」

 沈みゆく太陽が二人を照らし、灯台の光が再び夜の海を導き始めた。