暁の導標と羅針盤の少女

 七月の朝、明潮港には潮の香りが満ちていた。港の先端で柚は小さな羅針盤型のペンダントを握りしめて立っていた。昨日、祖母の遺品整理をしていて偶然見つけたものだ。金色の外枠に青いガラスがはめ込まれ、中央には古びた針が静かに眠っている。だがその針が、ここへ来た途端にかすかに震え始めた。
  「おばあちゃん、これ何に使ってたんだろう……」
  柚は独りごちると、港を見渡した。青い海が朝日に輝き、漁船がゆっくりと岸壁を離れていく。その時、ペンダントが一瞬だけ強く光り、彼女の目の前に淡い映像が浮かび上がった。
  映像の中には白髪まじりの男が立っていた。海辺の灯台の前で、厚手のコートを羽織り、無言でこちらを見ている。――いや、違う。男は何かを訴えているのだ。口は動いているのに音が届かない。背景には巨大な石造りの建物が映り、海底に沈む光景がちらつく。
  「……海底遺跡……?」
  思わず声に出すと、映像はふっと消えた。
  「今の、何?」
  驚きで胸が高鳴る。柚はペンダントを握ったまま、灯台の方角へ視線を移した。
  そのとき、背後から軽やかな声がした。
  「それ、すごいな。今、光ってたよね?」
  振り返ると、短く切りそろえた黒髪の少年が立っていた。柚と同じくらいの年齢だが、見慣れない顔だった。
  「えっと……誰?」
  「俺は湊斗。昨日転校してきたばかりなんだ。君は?」
  「柚。ここの中学に通ってる」
  湊斗はにこりと笑い、柚の手元を指さした。
  「それ、何のペンダント?」
  「祖母の形見。羅針盤みたいだけど、さっき急に光って……」
  柚は言葉を濁した。だが湊斗の目は真剣だった。
  「海底遺跡の映像、見えただろ?」
  「……どうしてわかるの?」
  湊斗はポケットから小さなメモ帳を取り出した。中には海底地図のような走り書きが並んでいる。
  「俺、転校してきた理由はそれを調べるためなんだ。この町の沖合には百年前に封印された遺跡がある。地元じゃ『暁の導標』って呼ばれてるけど、動き出したら危険らしい」
  柚はごくりと唾をのんだ。
  「……動き出した?」
  「うん。封印が緩むと、この港町全体が大渦に飲み込まれるって話だ」
  柚は無意識にペンダントを握りしめた。祖母がなぜこれを遺したのか、今わかった気がした。
  「私……見たんだ。灯台の前に立つ男と、沈んでいく石の建物」
  湊斗は少し黙ってから頷いた。
  「じゃあ、やっぱり君が鍵を握ってる。遺跡の封印をもう一度閉じなきゃいけない」
  柚は深呼吸した。今まではただの夏休みの初日だった。だが今は違う。――やるべきことが目の前にある。
  「わかった。私、協力する」
  その言葉に湊斗は少し安堵したように笑った。
  「ありがとう。まずは手がかりを探そう。図書館か海洋博物館に資料があるはずだ」
  「行こう!」
  柚は即座に行動に移した。祖母から受け継いだ正確な記憶力と行動力は、こういうときこそ活きるのだ。
  港を離れる二人の背後で、ペンダントは小さく光を放ち続けていた。


 二人は港から歩いて二〇分ほどの場所にある海洋博物館へ向かった。朝の陽射しは強かったが、海風が心地よく汗を吹き飛ばしてくれる。柚はペンダントを握ったまま、頭の中で先ほどの映像を何度も再生していた。灯台守と思しき男性の視線、沈みゆく遺跡、そして無音の訴え。
  湊斗が足を止めて柚を見た。
  「さっきからずっと考え込んでるね」
  「うん、あの映像……おばあちゃんが何か伝えようとしてた気がするの。遺跡を守れって」
  「君のおばあさん、灯台に関係してた?」
  「そうなの。昔は灯台守の家系だったって聞いたことがある」
  湊斗の表情がわずかに明るくなった。
  「それなら間違いないな。君の家は遺跡の鍵を守る役目を担ってたんだろう」
  柚は息をのんだ。そんな話は聞いたことがなかったが、ペンダントが見せた映像がそれを裏付けていた。
  博物館に着くと、展示室の片隅で海底地形のパネルが目に入った。波打つ海底に、丸い輪のような地形が描かれている。説明文には「暁の導標 海底遺跡」と書かれていた。
  湊斗はそれを見つけると、足早に資料公開室へ向かった。
  「図面とか古文書が残ってるかも。君、文字とか図面覚えるの得意?」
  「得意。全部覚える」
  柚は胸を張った。その言葉どおり、資料室で公開されていた古い航路図や灯台の設計図を一度見ただけで、細部まで記憶に刻み込んでいった。
  「すごいな、君。まるで写真を撮るみたいに覚えてるじゃないか」
  湊斗は感心したように呟き、スマートフォンにメモを取りながら笑った。
  「これで次の手順に進める。仲間を集めよう」
  「仲間?」
  「遺跡を閉じるには時間も人手もいる。俺ひとりじゃ絶対無理だ」
  柚は頷き、頭に浮かんだ顔ぶれを挙げた。
  「貴史、千愛、航太、可奈子……あと、交流プログラムで来てるドリューとカロリーナも」
  「それだけいれば十分だ。よし、今日のうちにみんなに話をしよう」
  湊斗の声は頼もしかった。初めて会ったばかりなのに、自然と背中を預けてもいいと感じさせる何かがあった。
  資料室を出て、二人は仲間たちを探しに町へ向かった。夏の日差しはさらに強くなり、蝉の声が一層響き渡っている。柚は汗をぬぐいながらも、心は軽かった。未知の危機と対峙することになるかもしれないのに、不思議と怖さはなかった。ペンダントが胸の奥で小さく温かく光っているような気がしたからだ。


 最初に向かったのは、港近くの小さな喫茶店だった。昼前の店内は落ち着いた雰囲気で、カウンター席に座る貴史の姿がすぐに見えた。彼は読書をしていたが、二人に気づくと柔らかな笑顔を見せた。
  「柚、どうしたんだい? それに君は?」
  湊斗が軽く頭を下げた。
  「転校してきた湊斗です。ちょっと急ぎの相談があって」
  貴史は本を閉じ、姿勢を正した。
  「話してごらん。何か力になれるかもしれない」
  湊斗は海底遺跡と封印の話を簡潔に説明した。話が終わる頃には、貴史の表情から迷いが消えていた。
  「面白いじゃないか。人の役に立てるなら喜んで参加するよ。僕も昔からこの町の海底遺跡には興味があったんだ」
  その穏やかな声に、柚の胸が少し軽くなる。貴史はいつも周囲を安心させる話し方をする。
  次に訪れたのは学校の体育館だった。部活中の千愛がバドミントンラケットを振っている。
  「千愛!」
  柚が呼ぶと、彼女はすぐに駆け寄ってきた。
  「何? 急に大きな声出して」
  「後で詳しく話すけど、危ないことが起きるかもしれないの。力を貸してほしい」
  千愛は目を丸くしたが、すぐに真剣な表情になった。
  「いいよ。私も成長できることなら挑戦したい」
  力強い言葉に、湊斗は「心強いな」と小さく呟いた。
  午後になるころには航太と可奈子も合流した。航太は滑舌の悪さに少し緊張していたが、正確に潮流や地形の知識を披露し、可奈子は「頼まれたら断れないしね」と笑って参加を承諾した。
  最後に、国際交流プログラムで来日していたドリューとカロリーナに声をかけると、二人とも迷わずうなずいた。
  「新しい場所に行けるなら楽しそうだね!」カロリーナは目を輝かせ、ドリューは落ち着いた声で言った。
  「君たちの視点で世界を見るのは僕にとっても成長になる。やろう」
  こうして八人の即席調査隊が結成された。
  柚は胸の奥が熱くなるのを感じた。祖母のペンダントが導いた仲間たち。これなら遺跡の封印もきっと守れる。
  「よし、明日の朝から計画を立てて動こう!」
  湊斗の言葉に、全員が頷いた。
  外に出ると、夕方の海が朱色に染まっていた。柚はペンダントを握りしめた。針がわずかに灯台の方向を指し、再び光を放った。まるで「よくやった」と言っているようだった。


 その夜、柚は自室でペンダントを机の上に置き、改めてじっと見つめた。昼間の光は収まっていたが、青いガラスの奥で微かな光が揺らいでいる気がする。
  「おばあちゃん……私、頑張るから」
  声に出すと、不思議な安心感が胸に広がった。
  スマートフォンには湊斗からのメッセージが届いていた。
  〈明日六時、港集合。潜航計画を立てよう〉
  彼の行動力と冷静な判断に、柚は心強さを覚える。転校してきたばかりなのに、彼はもうこの町の一員のように自然に溶け込んでいた。
  翌朝の打ち合わせに備え、柚は資料を整理した。海底地形図、潮流の記録、灯台の古い構造図。すべて頭の中に記憶していたが、紙に書き出すと不思議と心が落ち着く。
  「よし」
  ペンダントを首にかけ、ベッドに横になる。窓の外からは夏の虫の声がかすかに聞こえた。
  眠りに落ちる直前、耳の奥であの灯台守の声が聞こえた気がした。
  ――守ってくれ。導標を。
  柚は小さく頷いた。答えるようにペンダントが温かく光った。
  こうして、夏休み初日の一日は終わった。だがこれは序章に過ぎない。柚たちの前には、まだ誰も知らない海底遺跡の秘密と、町全体を巻き込む危機が待っていた。