波打ち際の約束―再会した幼なじみと始まるひと夏の恋

 時間の断層――その空間は、現実とはまるで別の世界だった。
  巨大な歯車が宙に浮かび、砂時計がひっくり返るたびに空間が揺らぐ。時の流れが一定でなく、重力すら不安定だ。
  健心は真由の手を握り、足元を確認しながら進む。
 「気を抜くな、ここじゃ一歩間違えば永遠に迷子になる」
  将吾の声が後方から聞こえたが、姿は見えなかった。
  その時、金属が擦れる音が響く。
  鎖――。
  あの鎖がまた現れ、二人の進路を塞いだ。
 「やっぱり来たわね」
  姿を現したのは、菜々。昨日とは違い、全身を黒い装束で覆い、背中には時を刻む巨大な振り子を背負っていた。
 「ここで会ったが百年目、とはこのことね」
  その声には、人間らしい温度が一切なかった。
  真由が一歩前に出る。
 「菜々……戻ってきて。あなたは本当はこんなことをする人じゃない!」
 「私は時間を守る存在。あなたたちのように過去を変えた愚か者は、排除しなくてはならない」
  鎖がうねり、二人に襲いかかる。
  健心は真由を抱え、歯車の間を飛び越える。鎖が床を叩き、火花が散った。
 「避けてばかりじゃ終わらない!」
  健心は歯車の影に身を隠しながら懐中時計を構えた。
 「これで……!」
  懐中時計が淡い光を放つと、鎖が一瞬動きを止める。
  しかし菜々はすぐに制御を取り戻した。
 「無駄よ。時間の鍵が二つあっても、私には勝てない」
  そのとき、真由の腕の紋様が強く光り出した。
 「……何、この感じ?」
  彼女の目に浮かんだのは、過去の断片――菜々と笑い合う記憶。
  かつて菜々は、未来の崩壊を防ぐため自ら時間の守護者となった。しかし、その代償として感情を失い、今の冷酷な存在になったのだ。
 「菜々……本当は、泣いてるんでしょ?」
  真由の声に菜々の動きが一瞬だけ止まる。
  健心はその隙を逃さず、懐中時計を菜々にかざした。
 「目を覚ませ!」
  懐中時計から放たれた光が、菜々の胸を貫く。
  次の瞬間、鎖が崩れ、振り子が砕け散った。
  菜々は膝をつき、顔を覆った。
 「私は……私は何を……」
  その声は、かすかに震えていた。


 菜々は膝をついたまま、震える声を絞り出した。
 「私は……何を守ろうとしていたの……?」
  その声には、これまでの冷酷さはなく、ただ深い戸惑いと痛みがあった。
  真由はゆっくり近づき、彼女の肩に触れる。
 「菜々、あなたはずっと頑張ってた。街を守るために。でも……途中で方向を間違えたの」
 「方向を……間違えた?」
  菜々の視線が揺れる。その瞬間、空間全体が不安定に揺らぎ始めた。
  巨大な歯車がきしみを上げ、砂時計が割れて砂がこぼれ落ちていく。
  将吾の声が空間のどこかから響いた。
 「時間の支配が弱まったんだ! このままでは崩壊する!」
  健心は真由と菜々の両方に手を差し伸べる。
 「菜々、一緒に戻ろう。これ以上、時間に囚われなくていい」
  菜々は一瞬、迷った表情を浮かべ、やがて頷いた。
 「……私も、やり直せるの?」
 「ああ。みんなでだ」
  その時、背後から低い笑い声が響いた。
 「やり直せると思っているのか?」
  姿を現したのは、傷だらけの将吾――しかしその目はさきほどまでの未来の将吾とは違い、冷たい殺意を帯びていた。
 「お前……誰だ?」健心が睨みつける。
 「俺は“捨てられた未来”の将吾だ。お前たちが選ばなかった結果の化身だ」
  その言葉と同時に、周囲の歯車が黒く染まり、鎖の群れが再び生まれる。
  菜々が青ざめた。
 「これは……私が呼んだの?」
 「いや、俺が勝手に来たのさ」捨てられた将吾は歪んだ笑みを浮かべた。「お前らが過去を変えたせいで、俺の存在は消える。だから――消える前に全部壊す!」
  黒い鎖が一斉に襲いかかる。
  健心は懐中時計を構えたが、強烈な衝撃で吹き飛ばされた。
 「くそっ……!」
  真由が駆け寄り、彼を支える。
 「健心、大丈夫!?」
 「平気だ……でも、このままじゃ……!」
  そのとき菜々が前に立った。
 「もう、誰も傷つけさせない!」
  彼女の体が光に包まれ、かつて時間を守る者としての力が覚醒する。
 「菜々、やめろ! その力を使ったら――」
 「いいの、もう迷わない」
  光が広がり、鎖の一部が消滅した。だが、捨てられた将吾は不敵に笑う。
 「おもしれぇ……なら、もっと本気で来い!」
  時空の底での最終決戦が、いま始まろうとしていた――。


 時空の底全体が軋むように震えた。黒い鎖と菜々の光がぶつかり合い、火花のような時の粒子が宙を舞う。
  捨てられた将吾は獰猛な笑みを浮かべ、鎖を振りかざした。
 「お前たちの選んだ未来なんて、全部無駄にしてやる!」
  鎖が竜巻のように渦を巻き、健心たちを飲み込もうと迫る。
  健心は懐中時計を強く握った。
 「真由、俺に力を貸せ!」
  真由は頷き、健心の手を重ねる。二人の腕に刻まれた光の紋様が共鳴し、懐中時計が強烈な光を放った。
 「これが……二人の“鍵”の力!」
  その光は鎖を弾き飛ばし、捨てられた将吾の動きを一瞬止める。
  菜々がその隙を逃さず、前へ踏み出した。
 「これ以上……時間を壊させない!」
  彼女の体から放たれる光が一層強くなり、黒い鎖を次々と消していく。
  しかし、捨てられた将吾は狂気の笑いをあげた。
 「甘い! 消えるのはお前らだ!」
  鎖が再び伸び、菜々を絡め取ろうとする。
  その瞬間、健心が菜々を突き飛ばした。
 「危ないっ!」
  鎖が健心の体に巻きつき、強烈な力で締め上げる。
 「ぐっ……!」
 「健心!」真由が叫ぶ。
  鎖が彼を引きずり、時空の裂け目へと落とそうとする。
  真由は咄嗟に懐中時計を胸に当て、強く願った。
 「お願い……彼を連れていかないで!」
  すると時計が激しく脈動し、真由の記憶が光となって溢れ出した。彼女の記憶の欠片――健心と笑い合った日々、交わした言葉、そのすべてが鎖を切り裂く力に変わった。
  鎖が砕け散り、健心は解放された。
  光の中で、捨てられた将吾が後退する。
 「バカな……お前ら、記憶を代償にしたのか……!」
  真由の意識が揺らぎ、膝から崩れ落ちる。
 「真由!」健心が抱きしめると、彼女は微笑んだ。
 「大丈夫……私は、あなたを忘れても……きっとまた……」
  その言葉と同時に、光が爆発的に広がった。
  時空の底が白に染まり、捨てられた将吾の姿が消えた。
  歯車が再び整い、砂時計が静かに時を刻み始める。
  菜々は息を呑み、膝をついたまま呟いた。
 「……終わったの?」
  将吾――本来の未来の彼が姿を現し、静かに頷いた。
 「未来は……繋がった。だが代償は――」
  将吾の視線の先で、真由の目がぼんやりと空を見つめている。
  健心は彼女の手を握り、決意の声を上げた。
 「何度でも思い出させる。たとえ一からでも……!」
  その声は時空の底全体に響き、残っていた黒い鎖がすべて消えていった。