春は、香りとともに。




「志野子さん」


 彼は彼女の名を、ゆっくりと丁寧に呼んだ。


「私は、文子をまだ過去にできていません。今でも胸に残っています。それは、一緒の時を過ごしたからです。
けれど――あなたを、文子の代わりに思ったことは一度もない」


 志野子ははっとして、顔を上げる。


「あなたは、あなたです。私は、文子にはなかったあなたにしか感じない気持ちを抱いています」


 その言葉が、すとんと胸に落ちた瞬間、志野子の瞳に涙が浮かんだ。


「……本当ですか」

「本当です。私は、ようやく誰かと向き合いたいと思えるようになった。……実のところ、伴侶になってくださるなら誰でもよかった。だけど、あなたと過ごしていく中で段々と彼女を思い出す日は少なくなりました」


 ふたりの間に流れる時間が、やさしく震えた。

 志野子は、そっと笑った。
 にじんだ涙を拭いながら、まっすぐ惟道を見つめる。


「私も……先生の過去も、全部ひっくるめて、大事にしたいと思っています」


 その言葉に、惟道は心から安堵の笑みを見せた。