春は、香りとともに。




 
 島津夫人が帰ったあと、長屋には再び静けさが戻った。
 けれど、志野子の心は穏やかではいられなかった。

 わかっていたはずだった。

 けれど、その“奥様”の第三者から話を聞いて奥様のぼんやりしていたものがはっきりと色付いた気がして……心の奥底がざわめいた。
 志野子が幼い頃、何度も舞踏会で見かけた華やかで知的な令嬢。憧れの存在であり、自分とはまるで別世界にいた人。


 (あの方と、私は比べられてしまう……)


 不意に、手元の裁ちばさみを置き、志野子は立ち上がる。

 胸の奥が、きゅうっと痛む。


 (先生は、私のことを“あの人の代わり”にしているんじゃないか。運良く、条件のいい私がいたのでは……)

 ――そんなはずはない、と頭ではわかっていても、心は簡単に割り切れなかった。

 惟道の優しさが、名前を呼ぶ声が、ぬくもりが。
 すべて、自分だけのものなのかどうか――それがわからなかった。