春は、香りとともに。



 その日、午後の陽射しは柔らかく、風は少し湿気を含んでいた。
 洗い物を干し終えた志野子は、縁側に腰を下ろして糸巻きを手に取っていた。

 縫いかけの襟ぐりを撫でるように縫いながら、思い浮かべるのは昨夜の出来事――
 惟道の手の温もり。
 名前を呼ばれたときの胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚。


 (あのときの先生の手、すごく……あたたかかった)


 ほんの少しだけ、顔が熱くなる。

 ――こんこん。

 そのとき、玄関の格子戸を軽く叩く音が聞こえた。


「はい」


 立ち上がって出てみると、そこに立っていたのは見覚えのある女性だった。
 上品な紺の絹の羽織をまとい、白髪まじりの髪をきっちりと結い上げている。
 眼差しは穏やかでありながら、どこか隠された鋭さを感じさせた。


「……まあ、志野子さん。やはり貴女だったのね」


 声に驚き、志野子はとっさに背筋を伸ばす。


「し……島津様……」

 その女性は、かつて父が男爵として交流を持っていた上級華族、島津家の夫人だった。
 志野子が“華族令嬢”として舞踏会に顔を出していた頃、幾度となく接してきた人物だ。