春は、香りとともに。




 その夜、惟道の熱はすっかり下がっていた。

 夜半、茶を入れて持ってきた志野子が、静かに声をかけた。


 「今夜は、もうお一人でお休みになれますか?」

 「ええ。もう大丈夫です。……志野子さん、ありがとう」


 名を呼ばれるたびに、志野子の胸は鳴る。
 それはきっと“慣れる”ことのない音だった。

 盆を持って去ろうとしたその時、惟道がそっと手を伸ばした。


 「……少しだけ、ここにいてもらえませんか?」


 志野子は、驚いたように目を見開いた。
 けれど、その手を見つめ、ゆっくりと頷く。

 ふたりの指が、畳の上でそっと重なる。

 まだ、恋ではない。
 けれど、そのぬくもりはどんな言葉よりも確かだった。

 雨のあとの夜。
 静けさの中で、ふたりの想いがじわりと香り立つように、滲んでいった――
 

「無理はなさらないでくださいね」


 その優しさに惟道は、心から感謝した。

 朝の光がふたりを包み、ゆっくりと日常が戻ってくる。