その晩、寝床についた後も、志野子は眠れずにいた。
ごく薄い布団越しに、夜風が頬を撫でる。セツの寝息が、小さく隣の部屋から聞こえてくる。
闇の中に、香道教室の記憶が蘇った。
あの部屋は、まるで“時間のない空間”だった。
炭を組む音、香炉に香を置く仕草、その手の動き。
静かで、無駄がなく、凛としていて、志野子は密かにあの姿に憧れていた。
――千原惟道。
令嬢としての最後の年、彼がふいに話してくれたことがある。
「香というのはね、君。人の“奥”に触れる芸だ。見えず、語らず、ただそっと“在る”」
その言葉の意味が、ようやく少し分かる気がした。
今の自分は、もう“見る者”ではない。
かつての“令嬢”ではない。
でももし、“在る者”になれるなら――。
そんな淡い予感が、胸の奥でゆっくりと芽を吹いた。



