春は、香りとともに。




 小さなため息をつき、志野子は窓辺へ近づく。
 外はまだ曇り空だが、雨はすっかり上がっていた。


「もうすぐ、お茶を淹れましょう」


 ひとり呟いて、自分を励ます。



 一方、惟道は寝覚めの浅い眠りからゆっくりと覚めていた。
 熱も引き、体調は回復しつつある。

 しかし心はどこか落ち着かず、昨日の夢の名呼びを繰り返していた。


 (志野子……)


 彼女の名が、頭の中で幾度も反響する。
 かつての妻の名と混ざり合いながらも、明確に今の彼女の名として刻まれていた。

 その事実に、惟道は不意に心が揺れ動く。


 (私は、どこへ向かおうとしているのだろうか)


 ふと、窓から差し込む朝の光に目を細める。


 「まだ……はっきりとは、言えない」


 小さく呟く。

 だがその呟きには、もう昔の自分には戻れないという覚悟が含まれていた。
 惟道は布団の中で身体を伸ばし、ゆっくりと目を覚ました。
 昨夜の熱の余韻はまだ残るものの、確かな回復の兆しを感じる。

 ふと視線を上げると、障子の向こうに淡い光が差し込み、部屋の隅で静かに佇む志野子の姿が見えた。
 彼女は気づかぬようにじっと、彼の寝顔を見つめている。

 その姿に惟道の胸の中に、ぽっと温かいものが広がる。
 不器用ながらも、確かな存在感を感じさせる彼女の手のぬくもり。