春は、香りとともに。




 志野子の心臓が、どくんと跳ねた。

 熱にうなされるその声は、夢と現の境目で、たしかに自分の名を呼んだ。

 名を、呼ばれた。

 惟道さまが――わたしを。


 胸の奥に、熱いものが込み上げてくる。
 怖かった。けれど、うれしかった。
 そのどちらでもあって、どちらでもなかった。

 志野子は彼の手を両手で包み込むと、唇を噛んだ。



「ここにいます。……わたしは、ここにいますから」
 

 雨音が、トタン屋根を叩いていた。
 遠くの街灯が滲んで、長屋の中にゆらゆらと灯りを落としている。

 その夜、志野子は彼の枕元でずっと見守り続けた。
 惟道の熱が下がるまで、ずっと――

 惟道は、深い眠りの中でまどろんでいた。
 熱にうなされながらも、夢の世界では遠い記憶が混ざり合う。

 かつて、妻・文子が微笑んだその香りの中に、何度も抱かれた日々。
 彼女の笑顔、声、指先の感触。どれも、幻のように鮮やかだった。

 しかし、夢の中でその名は徐々に薄れ、代わりに呼びかける声が変わっていく。