春は、香りとともに。




「この香には、名前はありますか?」


 志野子の問いに、惟道は首を横に振った。


「ありません。まだ、“名前を持たない香”です。
 でも……今日、ようやく意味が宿った気がします」


 志野子は、思わず惟道の横顔を見た。
 その視線に、何かを読み取ろうとするような気配を感じた。


「意味、ですか」

「ええ。……香に宿るのは、出来事ではなく、“人”ですから」


 そう告げた惟道は、志野子のほうをまっすぐに見た。


「この香が、今日ここで焚かれたことで、私は“あなたのこと”を記憶するでしょう」


 それは、どんな愛の言葉よりも重いものだった。

 志野子は思わず目を逸らし、けれど微かに頬を染めた。

 名を呼ばれたわけでもない。
 触れられたわけでもない。

 それでも、彼の中に“自分の香”が宿ったと知っただけで、胸の奥が熱くなる。