春は、香りとともに。




 名前だけ。
 なぜ書いたのか、うまく説明はできなかった。
 けれど、“この場所にいる”ということを、形にして残したかった。

 惟道の、未来の記録のなかに。
 自分が“いた”という痕跡が、ただひとつでもあればいい――

 それはささやかな願い。
 けれど、それ以上に強い願いでもあった。

 志野子は筆を置くと、ふっと香を聞いた。
 そして、灯りを落として、静かに襖を閉めた。

 夜の香の余韻とともに。

 翌朝、惟道は香の間でいつものように香木の整理をしていた。
 昨日、志野子とともに探し出した帳面の記憶が、どこか心に残っている。

 手にしたのは、まだ書き込みのない白い帳面だった。
 紙の質感からして、自身が選んだものだとすぐにわかる。
 ふと、扉裏に目をやると、小さな文字がひとつ――


――《志野子》


 墨ではなく、やや淡く擦れた筆跡。
 まるで、名を叫ぶのではなく“そっと香らせるように”記された一文字だった。

 惟道はそれを見た瞬間、なぜか筆を持つ手を止めた。

 書いたのは、彼女自身だろう。
 それは主張ではなく、痕跡だった。
 名乗るのではなく、“ここに居た”という、ひとひらの証。

 (……あの夜に)