春は、香りとともに。




 その夜。
 志野子は、香の間にひとり残って、帳面を整理していた。
 焚かれた香は“白檀と藿香(かっこう)”。
 昼間の香よりも軽やかで、ふと心をほどいてくれる香りだった。

 香記録帳の一冊を開き、整えようとしたとき。
 ふと、一冊の余白の多い帳面に、目が留まった。

 その帳面の背表紙には、日付も題名もなかった。
 まっさらの香記録帳。けれど、紙質は良く、惟道がとっておいたものなのだろう。


(……香は、いまを記すもの)


 彼の言葉が、胸に残っていた。

 志野子は、小さく筆をとり、帳面の扉の裏――
 誰も見ないような片隅に、そっと書き添えた。


――《志野子》と、ただひとつ。