【惟道side:香に宿る、ひとりの記憶】
帳面を閉じたあとも、惟道の指先には微かに“文子”の気配が残っていた。
筆致、香の配合、添えられた短い感想。
どれも、今はもう香りのように消えつつある、過去のかけら。
(文子は、香に生きていた人だった)
惟道がまだ駆け出しの香道家になったばかりだったころ、文子は静かに寄り添ってくれた。
香木の色味や音にも敏感で、“この香は冷えていて、悲しげ”と言ったこともある。
彼女は香を“心の鏡”のように感じ取っていた。
あの日、ふたりで調合した沈香の香は、やわらかく、やや甘く、余韻が長かった。
それを文子は「恋の後味に似ている」と言って、少しだけ笑った。
(……あの人は、もういない)
そして、いま――隣の部屋には、志野子が静かに座している。
淡い香のような気配をまといながら、けれど彼女は誰の影でもない。
惟道の“いま”の暮らしに、少しずつ滲みはじめている存在だった。
香は、記憶に留めるためのものではない。
今、焚かれて、今、感じ取るもの――。
そうでなければ、香人などという生き方に、意味はないのだ。
惟道は机に置いた帳面を見つめ、心の奥でふっと風が通り抜けるような感覚を覚えた。



