春は、香りとともに。




 香は「人の記憶」に残るもの。
 だが、香人にとっては「記録」してこそ、未来につながると惟道は常に語っていた。

 そんな彼が見つけられない帳面があるというのは、ただの物忘れでは済まされないらしい。


「お手伝い、させていただけませんか」


 志野子は、ごく自然にそう言った。
 惟道は一瞬、目を細めて彼女を見たが、やがて頷いた。

「では、お願いします。……おそらく、書庫の奥の棚、三段目にあったはずなのですが」


 夕方。香の間に隣接した書庫は、半ば物置のようになっていた。
 床には箱がいくつか積まれ、棚の上段には時折しか使われない陶器の香炉が埃をかぶっていた。

 志野子は足元の箱から丁寧に一冊ずつ帳面を取り出しては、表紙に目を通していく。
 惟道も、静かに隣で棚を探っていた。

 ふたりの指がすれ違うほど近くなる瞬間。
 紙と香木の香りが混ざり合い、胸の奥がふと揺れる。