その夜、夕餉のあと。
食器を片付け、台所に布巾を干し終えると、志野子は香の間に戻り、ふと懐から小さな包みを取り出した。
手のひらに収まるほどの、丸い包み。
紫色のちりめんに包まれたそれは、志野子が自分の裁縫箱から取り分けて仕立てた、小さな針山だった。
(贈りもの、なんて。おこがましいかしら……)
けれど、浴衣を縫うその時間が、あまりにも特別に思えて。
この家で過ごす“ふたりの日々”に、何かしるしを残したいと、自然と思ってしまったのだ。
手の中で、ちりめんがわずかに鳴る。
その音さえ、まるで鼓動のように感じた。
思い切って、志野子は惟道の部屋の前に立った。
「先生、少しだけ、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
襖の向こうから変わらぬ声が返る。
中に入ると、惟道は書きものをしていた手を止め、こちらを向いた。
机の上には、文鎮の隣に香木のかけらが置かれていて、どこか落ち着いた香りが部屋を満たしていた。
「……あの、これを」
志野子は、おずおずと針山を差し出した。
「先生の浴衣を縫うにあたって、どうしても使い慣れた道具で整えたくて……。でも、これは“ふたり分”の印として、先生にも持っていていただけたらと思って」
惟道は一瞬、視線を落とす。
そして、ゆっくりとその包みを受け取った。
手の中におさまる、やわらかな針山。
丸みのある布の中には、乾かした綿花と香木の削りくずが混ぜられているらしく、ほんのりと香がした。
白檀と、薄い伽羅の香り。
志野子の“仕事の気配”が、針の間からふわりと立ち上がっていた。
「……いただきます。これは、香ですね。あなたの香りがします」
志野子は目を見開き、次第に瞳を伏せた。
うれしさと照れくささが入り混じって、声が出なかった。
「浴衣、大切に仕立てていただきます。……この針山も、針を通すたび、あなたの香を思い出すでしょう」
志野子はただ、こくりと頷いた。
もう言葉は必要なかった。
その夜、ふたりの部屋に灯った明かりは長く消えず、
香の間に漂う空気が、どこまでも静かに温かかった。



