春は、香りとともに。





 雨は昼すぎに上がった。香の間から見る庭には、まだところどころに雫が残っている。
 竹垣の端に吊るされた香袋たちが、風にそよそよと揺れていた。


「……よく乾きましたね」


 志野子がそう言いながら、手を伸ばしてひとつの袋を手に取る。
 その香袋は、白地に薄墨で小さな流水文が描かれていて、触れるとふんわりと沈香が香った。


「沈香の香り……これは先生の香座でよく焚かれるものですね」

「ええ。香袋に入れるときは、わずかに白檀を加えています。少しだけ柔らかくなりますから」

「……白檀、ですか。たしかに、心が和らぐ香りです」
 

 志野子は香袋を両手で包み、そっと鼻先に寄せた。
 その所作がどこか子どものようで、けれど仕草は淑やかだった。

 惟道はふと、彼女の横顔を見つめていた。

 白い指、伏せた睫毛、鼻先の高さ。
 風が吹き抜けるたび、彼女の髪が香とともに揺れていた。


(香というのは、空気に宿るものだ。……彼女も、そうしてここに“香り”として存在している)


 誰にも気づかれぬように、そっと寄り添う気配。
 それを見ていると、惟道の胸の奥で、静かに何かが満ちていくのを感じた。