春は、香りとともに。




  ***
 
【惟道side:想像してしまう】
 

 採寸の間、惟道の心は不思議な波立ちを見せていた。
 それは香の稽古で弟子と向き合うときとも、生活を共にする親族とも違う“距離”だった。

 あまりにも近いのに、どこにも触れてはいけない。

 その緊張感が、逆に想像力を研ぎ澄ませてしまう。


 (この浴衣を着る日がくるのだ)


 自分のために仕立てたもの。
 その袖に腕を通し、香を聞く夕べに並ぶ姿を――

 想像してしまった。

 椿色の帯を合わせ、うなじを少し見せる。
 涼やかな香に包まれた彼女が、静かに隣にいる。
 ただ、それだけの情景が、なぜか胸を締めつける。


(……私は、こんな気持ちを忘れていた)


 “妻”という言葉が、胸をかすめた。

 しかし、今の志野子には、その言葉は似合わない。
 彼女は、まだ誰のものでもない。
 だからこそ、この想いに名前をつけることができない。


 「――失礼します。測り終えました」


 志野子の声で、惟道は我に返った。

 「ありがとうございます。……緊張させてしまったかもしれませんね」

 「いえ……こちらこそ、少し手が震えてしまって」
 

 ふたりとも、互いに目を合わせることができなかった。

 けれど、それでも良かった。
 その沈黙にこそ、名前のない想いが宿っていたから。