「なぜ、いまになって……」
「亡くなった奥さまのことは、知っているでしょう? 今、一人きりで香道を守っていらしてね。あなたのことを、よく覚えていてくださっていたのよ」
母の声が、やけに滑らかだった。
まるで、すべてが決まっているかのように。
志野子は、息を詰めた。
かつて、香道家の静謐な部屋で、香を聞くたびに感じていた。
この世界には、音も色もなく、ただ「香り」だけがあると。
――今の自分には、その静けさが必要なのかもしれない。
だけど。
惟道と再び会えば、自分の心はどうなるのか。
それは、志野子自身にも分からなかった。



