春は、香りとともに。



 朝。香の間に、しとしとと細かい雨音が落ちている。
 障子の外では、梅雨の雨が紫陽花の葉をぬらしていた。

 志野子は小さく伸びをして、手を合わせるようにして布団の端を折りたたんだ。
 まだ肌寒い朝の空気に、指先がひやりとする。


(……先生は、もう起きていらっしゃるかしら)


 香の道をたしなむ人間の朝は早い。
 それに、この家には目覚ましの鐘もなければ、呼びに来る使用人もいない。

 ただ、廊下の向こうからかすかに聞こえる戸の音と、
 香の間の空気の“におい”が、惟道の気配を伝えてくれていた。


「――あ、おはようございます、先生」


 志野子が台所に向かうと、すでに惟道が湯を沸かしていた。
 着流し姿のまま、静かに釜を見つめるその後ろ姿は、どこか雨の景色とよく似合っていた。