春は、香りとともに。




 惟道だった。
 志野子は思わず、襖のほうを向いた。


「先生、おはようございます」

「おはようございます」


 彼の声は、昨夜よりもほんの少し近く、やわらかかった。

 そのあと、ふたりは並んで縁側に出た。
 庭の紫陽花が、夜露に濡れて光っていた。


「……昨夜の灯、ありがとうございました」


 志野子は、静かに頷いた。


「先生が、おひとりで眠る夜が寂しくないようにと思って……。ご迷惑でしたか?」

「いいえ。……あれは、香そのものです。
 言葉ではなく、気配で届く優しさ――私は、よく聞き取りました」


 志野子の心が、そっと揺れる。

 “気配で届く優しさ”――
 まるで、恋のことを言われたようで。

 でもきっと、恋なんて言葉を使えば、壊れてしまいそうで。
 だから、ふたりは香のように、少しずつ気持ちを重ねていくのだ。

 言葉の代わりに、灯りや香で伝えながら。