春は、香りとともに。





  ***


 日が落ちるのは早くなり、香の間にも夕闇が差し込んでいた。
 志野子は、障子の外に揺れる梢の影を見つめながら、ふとひとつ、蝋燭を灯す。

 灯心に火をつけると、柔らかい橙色の光が部屋を満たしていく。
 香炉は今夜は焚かない。香の残り香と、ほんの少しの灯のぬくもりだけがある。


 (……こんなふうに、誰かと灯りを囲むなんて)


 思えば、父が出奔してからというもの、“誰かのために灯を点ける”ということがなかった。
 家は冷えて、心も冷えて、いつしか火を扱うことすら面倒になっていた。

 でもいまは。

 誰かがいて、自分の灯りを必要としてくれる。
 その実感が、芯の奥を静かにあたためていた。