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惟道にとって、“誰かと食卓を囲む”ということは、十年ぶりの出来事だった。
前の妻とは、温かな思い出ばかりではなかった。
香の道を理解されず、彼女にとっては「煙たい家」だっただろう。
それでも、彼女が台所に立ち、味噌汁を出す朝の空気には、今とは違う“温度”があった。
(……志野子さんは、静かに空気に馴染む)
声を張り上げることもなく、過剰な遠慮もせず。
たった一杯の味噌汁に、気遣いとやさしさと、自分の居場所を込めるような所作。
「……おいしいですね。お味噌が、少し甘く感じます」
「お砂糖をひとつまみ入れました。旅館で教えてもらったことがあって……」
「そうですか。……あなたが作ると、まるで香のように、懐かしい味になりますね」
言ってから、惟道は気づいた。
“まるで香のように”などという言い回しが、まるで“口説くような”響きを持ってしまうことに。
けれど志野子は、照れたように小さく笑う。
それがとても可愛らしい。こんな可愛らしい子が自分の妻になってくれたなんて未だ夢のようだ。
「香って、味にも似ていますよね。……記憶と一緒にあるところが」
考えを巡らせていると、彼女はそう返してきた。
ふと、同じ感覚を共有できたような気がして、惟道は言葉を継ぐのをやめた。
ただ、この朝の空気を、胸の奥に収めたくなった。



