春は、香りとともに。




 この部屋だけ、時間が静止しているようだった。
 香木が焚かれていなくても、畳に染みついた残り香が、まるで志野子を包み込んでくる。


「よければ、昼前に一度だけ、軽く香を試しましょう。……そのあとは、暮らしのほうを整えましょうか。寝具も、台所も」

「はい……ありがとうございます」


 志野子は、畳の上に静かに正座して深く礼をした。
 惟道はそれに、ゆっくりと頭を下げて応えた。

 ふたりの間に、香が満ちたわけではない。
 でも、この空気そのものが“香のよう”だった。


 香の間に荷をほどき終えると、志野子は台所へと向かった。
 惟道の家の台所は広くはなかったが、清潔で、鍋や包丁が几帳面に整頓されている。


「先生、今朝のお食事、わたしがご用意しても……?」

「はい。今朝はあなたにお願いしましょう。――その代わり、夕餉は私が担当します」


 炊飯釜に浸された米、木のまな板に置かれた胡瓜と大根。
 それらを手に取るうちに、志野子の胸に小さなときめきが灯っていた。