梅雨の雨間に、淡く陽が差したある朝。
志野子は、小さな風呂敷をひとつと、文箱を抱えて、長屋の扉を閉めた。
「……忘れ物はないわね、セツ?」
「ええ、お嬢さま。いえ、志野さま」
そう呼び直したセツの声が、少しだけ震えていた。
私の部屋だった長屋の一角はもう誰も住んでいないから引き払っていた。
ほんのわずかの家財道具は親戚に引き取られ、志野子が持っていくのは着物数枚と裁縫道具、そして惟道から預かった香の道具一式だけ。
小さな再出発。
それは嫁入りでも、引っ越しでもなく――どこか、香に導かれるような旅立ちだった。
「……本当に、行ってしまわれるんですね」
「ええ。でも、近いわ。あなたにも、すぐ手紙を出す」
志野子は、セツの手を握った。
年上で、姉のように慕っていた使用人。
けれど今はもう、立場も衣服も、同じ“庶民”の装いだった。
「わたし、彼の方に感謝してるんです。お嬢さまに“生きてる声”が戻ったの、先生と香のおかげですから」
「……ありがとう。わたしも、そう思うわ」
風が吹いた。
きつく結った志野子の髪を、細い指がなぞった。
すっと肩の力が抜けてゆく。
「行ってまいります」
志野子は小さく一礼して、セツと別れ長屋をあとにした。
どこか、嫁入りの朝に似ていた。
でも今回は、“誰かの姓になる”のではなく、“自分の名で生きるため”の出発だった。



