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部屋の空気は、静かに濃くなっていった。
香はもう消えているのに、まるでまだ香りが漂っているかのようだった。
惟道の手は温かくて、志野子の心の震えを包んでくれていた。
けれど――
「……そろそろ、帰ります。セツが心配しますわ」
自分の中の何かが、それ以上を望むことを、どこかで止めていた。
惟道も、無理に引き止めようとはしなかった。
「駅まで、送ります」
「ありがとうございます……」
手を離す瞬間が、こんなに名残惜しいなんて――
志野子は、ふと自分が“恋をしている”ことを実感した。
火が灯らなかった夜。
けれど、確かにふたりの心には、あたたかな香が灯った。



