春は、香りとともに。




  ***
 

 部屋の空気は、静かに濃くなっていった。
 香はもう消えているのに、まるでまだ香りが漂っているかのようだった。

 惟道の手は温かくて、志野子の心の震えを包んでくれていた。
 けれど――


 「……そろそろ、帰ります。セツが心配しますわ」


 自分の中の何かが、それ以上を望むことを、どこかで止めていた。
 惟道も、無理に引き止めようとはしなかった。


「駅まで、送ります」

「ありがとうございます……」


 手を離す瞬間が、こんなに名残惜しいなんて――
 志野子は、ふと自分が“恋をしている”ことを実感した。

 火が灯らなかった夜。
 けれど、確かにふたりの心には、あたたかな香が灯った。