春は、香りとともに。




 ほんのわずか。
 けれど、それだけで全身がじんと熱を持った。


「……すみません、驚かせてしまいましたか」


 惟道の手がすぐに離れようとするのを、志野子はほんの少しの勇気で、止めた。
 その指に、自分の指を重ねる。

 暗がりの中で、何も見えなかった。
 けれど、ふたりの気配が、確かに触れあっていた。


「わたしも……来年の春、また“春しのぶ”を聞いてみたいです」 


 そっと告げると、惟道が、ほんのわずかに指を握り返してくる。


「……あなたと聞けば、また違う香に感じるでしょう」

「それでも、また……名付けられるでしょうか?」

「ええ。何度でも、“春”を思い出せばいい。……あなたの心が、香そのものですから」



 それは、たしかな“恋”のかたちだった。
 名前もない、約束もない、ただ静かに重なるだけの――けれど、それでもいいと心から思える時間。