春は、香りとともに。




  ***
 

 その日の昼下がり、志野子が仕立てた布を風に干していると、門の外から声がした。


「……ごめんくださいな。志野子、おるかえ?」


 まさか、と思った。

 その声を、志野子は知っていた。

 ――母の声だった。

 女中を置いて、華族としての誇りにしがみついていた彼女。

『こんな暮らし耐えられないわ……!』

 そう言って家を出ていったあの日から、母は志野子に一通の手紙も寄こさなかった。
 それが今になって、なぜ。


「お母さま……?」


 門を開けると、かつての艶やかな和装に身を包んだ母が、まるで何事もなかったような顔で立っていた。


「まあまあ、元気そうで何より」


 そう言って笑ったその顔に、志野子は言葉を失った。

 母の口から出た第一声は、信じられないものだった。


「志野子、良縁があるの。あんたに、もう一度“家”を持ってもらえる話よ」