春は、香りとともに。





 ――こんなに、暗いのに。

 目が慣れてきて、隣にある屏風の模様がようやく見えるようになったころ、障子の向こうから静かに足音がして、惟道が戻ってきた。


「……火は、今夜は使わないことにしましょう。余韻というものも、香の一部です」


 そう言って、彼は蝋燭を使わず、脇に置いた。

 室内は暗いままだった。
 だが、不思議と恐くなかった。

 むしろ――どこまでも、落ち着いた。
 闇の中、わずかに彼の気配と体温が感じられる。


「……先生」

「はい」

「さっき、おっしゃった“ずっと香を聞いていたい”というのは……香と、わたしの、どちらに?」


 問いかけたあとで、自分がなんてことを聞いたのだろうと、頬が熱くなる。
 けれど、惟道は少し間を置いて、静かに答えた。


「――両方、です」


 短い答えだった。
 でも、まっすぐな、嘘のない声だった。

 志野子の手が、そっと膝の上で震えた。
 気づけば、反対側に置いていた手の甲に、惟道の指先がふれていた。