「……わたしには、過去に縛られていた時間が長すぎました。けれど、先生といると、未来のことを考える自分に気づきます」
惟道が、顔を上げる。
「未来?」
「はい。たとえば、来年の春にはどんな香を聞こうか――とか。今まで、未来のこと考えたことなかった。そんなふうに思ったこともなくて、考える暇もないくらいに時代が変化してしまった」
目が合う。
それだけで、胸の奥がじんわり熱を持つ。
「……私は、今のあなたと、来年のあなたと、その先のあなたと――できることなら、ずっと香を聞いていたい」
それは告白だった。
けれど、声は囁くように低く、まるで“香”そのもののように静かだった。
外はすっかり暮れ、窓の外では草木も黙って夜を迎えていた。
志野子は香炉を拭き終えると、炭の灰に最後の息を吹きかけ、炉の蓋を閉じた。
ふと気づけば、部屋にはもう火も灯もなくなっていた。
灯心の油も使い切り、惟道が蝋燭を持ってくるというので、彼が奥に消えるまで、志野子は膝を折ってじっとその場にいた。



