春は、香りとともに。



 沈黙が落ちる。
 けれど、ふたりの間の空気はどこまでも優しかった。

 やがて惟道が、そっと言葉を続けた。


「私の妻は十年以上も前に、病で亡くなりました」


 志野子は、小さく頷いた。


「奥様も、香を?」

「いえ。香には縁のない人でした。……けれど今、あなたと香を聞くうちに、自分がまだ“誰かと時を重ねられる”ということを知りました」


 まるで、焚き残しの香がまだ香っているような、柔らかく、残る言葉だった。

 志野子は、そっと炉の縁に手を置いた。