その夜、茶室の奥座敷。
香会の後片づけが終わり、志野子は火を落とした香炉のそばで静かに灰を整えていた。
「香に、名をつけるとき……何を思うのですか?」
惟道が、ふいに問いかけた。
彼はいつものように真っ直ぐな姿勢で正座し、志野子の手元を見つめていた。
「……過去の情景、かもしれません。忘れたふりをしていた記憶が、香を聞くとふいに浮かんできて」
「それを、ことばに変えている?」
「はい。香は……わたしの心の翻訳です」
惟道は、少しだけ目を伏せた。
「実は私も、今日は名をつけていたのです。あの三番目の香……あなたが“春しのぶ”と名付けたそれに、私は“君影草”と書いていた」
「君影草……鈴蘭の、別名」
「うつむきがちに咲いて、それでも香りだけは、凛としていて。……まるで、あなたのようだと思いました」
志野子は言葉を失った。
視線を逸らすこともできず、けれど見つめ返す勇気もなかった。



