春は、香りとともに。



 

 香の会がひと段落し、客人たちが礼を述べて退出していったあとも、志野子の胸の奥はまだ、柔らかく熱を持っていた。

 短冊に書いた“春しのぶ”の文字は、まるで心そのもののようだった。


 ――春を思い出さないようにしていた。


 かつての自宅の庭先で、母と刺繍をしていたあの午後。
 白い手袋をしたまま母が言った。


「あなたは、春のような子よ。華やかで、でもすぐに儚くなる」

 それは褒め言葉ではなかった。
 母にとって志野子は、財産でも勲章でもなく、ただ“華族男爵家の体裁を保つ道具”でしかなかった。

 その後、父が出奔し、急ごしらえで持ち込まれた縁談。
 同じく家名のために婿を取ることを条件とされた男爵家の子息との結婚。
 愛もなく、視線さえ合わぬ日々。けれど、志野子はそれに“従うこと”が自分の役目だと信じていた。


 ――けれど、戦争が終わった。


 戦後、華族制度は廃止され、彼女の姓は平民と変わらぬものになった。

 そして元夫は、静かに離婚届を出した。
 誰も責められなかった。
 けれど、誰のせいにもできなかった。
 ただ、家も名も、すべてが消えていった。

 残ったのは、小さな行李一つと、香道の教本だけ。
 なぜか、これだけは捨てられなかった。


(香が、残ってくれた)


 香の道が、まだ志野子の中にあったのか。
 かつて令嬢教育の一環で学んだだけのはずの香道なのに。今なら、わかる……きっと惟道さまとの未来のためだったのだ。

 あの日、惟道が門前に立っていたのを見たとき――
 彼の背中に香木のような気配を感じた。
 静かで、でも決して折れないもの。

 (“あの春”は終わったけれど。――“今の春”は、この人と)