春は、香りとともに。




「緊張していますか?」


 香の用意をする惟道が、ふと問いかけてくる。


「……はい、少しだけ。でも、先生が隣にいらっしゃるから、きっと大丈夫です」

「心で聞けば、香は応えてくれます。――人も同じです」


 その言葉に、志野子は胸の奥をそっと押された気がした。

 “人も同じ”――。

 惟道は、いま、何を聞いているのだろう。香か、志野子の心か。

 炉に置かれた灰が、美しい渦を描く。
 練炭が仕込まれ、その上に香木が慎重に据えられると、ふわりと一陣の風のように、香りが空間を満たしはじめた。

 志野子は目を閉じ、静かに吸い込む。


 ――すべてが、音のない世界に変わる。
 鼻腔ではなく、胸の奥が、記憶の扉を開いてゆく。