春は、香りとともに。



 

 香を聞くとは、香りを“嗅ぐ”のではない。
 姿のないものを、心で感じ、見えない記憶を呼び起こすこと。

 それは、恋ととてもよく似ている――と、志野子は思うようになっていた。

 ふとした拍子に、惟道の手元を見るだけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
 彼の声を聞くと、香のように過去の記憶がよみがえって、今の自分をそっと抱きしめてくれるようだった。

 けれど。
 この想いは、“香”と同じで、誰にも伝わらぬまま終わるものなのかもしれない。

 それでも、いいと思った。
 香が香り立つその一瞬のように、彼と交わす静かな時間が、志野子にとって何よりの“恋”だった。