春は、香りとともに。




  ***
 

 朝湯を浴び、繕いを終えた志野子は、卓上に布を広げていた。
 裁ちばさみの銀色の刃が、布の上を滑るたび、微かに鳴る音が心地よい。

 亡き祖母に教わった裁縫の腕だけが、今の志野子の“財産”だった。


「この布……」


 ふと、志野子は端に縫い込まれた刺繍に指を止めた。
 若草色のリネン地に、白糸で縫われた小さな百合の花。あれは、留学から戻った年に仕立てた“昼のドレス”の裾にあった模様だ。


「……懐かしいわね、あのドレス。ロンドンの晩餐会で、着たのよ」

「ああ、お覚えがありますとも。お嬢さまが、紅茶の作法を完璧に披露して、老伯爵が“イングリッシュ・ローズだ”と感嘆した晩ですわ」


 セツがくすくす笑う。


「……でも、もう薔薇じゃないわ。しなびた小松菜みたいなものよ、今は。花ですらないわ」

「それは違います」


 ぴしりと、セツは言った。


「香りを失っても、花は花です。咲く場所が変わっただけでございます」


 志野子は、そっと裁ちばさみを置き、セツのほうを見た。
 長年仕えてきたこの女中は、時に母のように厳しく、時に妹のように生意気だったが、今や志野子にとって、かけがえのない家族だった。


 ――家を失い、父を失い、夫を失っても、セツだけはそばにいた。

 それが、志野子の支えだった。