春は、香りとともに。




  ***
 

 数日後。

 香道教室に、久しぶりに“外の客”が訪れた。

 彼の名は――岡元 高雅。
 志野子の元夫であり、華族社会が崩壊したあと、海外で事業を起こしていたという噂の男だった。


「……高雅さん」


 その声には、懐かしさも、驚きも、怒りもなかった。

 ただ、“香りを失ったもの”を見るような静かなまなざしだけが、そこにあった。


「志野子……変わったね。ここにいる君は……まるで違う」

「ええ。あなたが知っている志野子は、もう、いません」


 静かなやり取りの中に、惟道の姿が近づく。


「千原惟道です。この家を守っております」


 高雅は、一瞬だけ惟道の手を見た。
 そして、ゆっくりと頭を下げた。
 

「……志野子が、安心できる場所にいるなら、それでいい。……ただ、それだけ、確かめに来ただけだ」


 そう言って去っていく背中に、志野子は何も言わなかった。

 ――昔の志野子なら、引き留めたかもしれない。
 でも今の志野子は、もう自分の“香”を、どこに置くべきか知っていた。