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数日後。
香道教室に、久しぶりに“外の客”が訪れた。
彼の名は――岡元 高雅。
志野子の元夫であり、華族社会が崩壊したあと、海外で事業を起こしていたという噂の男だった。
「……高雅さん」
その声には、懐かしさも、驚きも、怒りもなかった。
ただ、“香りを失ったもの”を見るような静かなまなざしだけが、そこにあった。
「志野子……変わったね。ここにいる君は……まるで違う」
「ええ。あなたが知っている志野子は、もう、いません」
静かなやり取りの中に、惟道の姿が近づく。
「千原惟道です。この家を守っております」
高雅は、一瞬だけ惟道の手を見た。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……志野子が、安心できる場所にいるなら、それでいい。……ただ、それだけ、確かめに来ただけだ」
そう言って去っていく背中に、志野子は何も言わなかった。
――昔の志野子なら、引き留めたかもしれない。
でも今の志野子は、もう自分の“香”を、どこに置くべきか知っていた。



