春は、香りとともに。




 ふとした音に、暮らしが映る。
 暮らしの中に、人の心がある。

 この場所に来てから、志野子は毎日少しずつ“香を聞くように”生き方を学び始めていた。


 夕方の帰り道。
 空には薄い夕焼けが溶け、風が長屋の町をくすぐるように吹いていた。

 志野子の着物の裾がはらりと舞い、ふと立ち止まったそのとき、背後から声がかかった。


「志野子さん」


 振り向くと、惟道がいた。
 家からそれほど離れていない道端――まるで、彼も同じ風に誘われたようだった。


「……少しだけ、歩きませんか」


 その声に、志野子はこくりと頷いた。

 並んで歩くと、草履の音が交互に響く。


「こうして並んで歩くのは……ずいぶんと久しぶりですね」

「ええ。以前は、香席では並びませんでしたから。……でも、今のように“香を聞く者”同士としてなら、肩を並べられる」

「……その言葉、とても嬉しいです」
 

 頬が、ほんの少し熱を帯びた。

 恋をしていると気づいたわけではない。
 でも、誰かの隣を歩いて“安心できる”という気持ちは、今の志野子にとって、かけがえのない宝のようだった。