志野子は、その感情を“恋”という名で呼ぶのが怖かった。だって今までそんな感情は無縁だった。
まだ早い。まだ心の火は浅い。
それでも、香のように、ふわりと満ちてきていた。
その日、稽古終わり。志野子は片付けの手伝いを申し出た。
惟道はそれを丁寧に断ったが、志野子の真っ直ぐな眼差しに、微笑を浮かべて湯呑みを差し出した。
「では、これを洗っていただけますか」
「喜んで」
水屋に立つと、ささやかな音が響いた。
湯の流れる音、陶器が重なる音、布巾を絞る音。
その静かな時間の中で、志野子は、かつて自分が“された側”の仕事を、今は自分の手で行っていることを、ふと思った。
(昔の私は……こういう音に、耳を傾けたことがなかった)



