その帰り道、空は淡い紫に染まっていた。
志野子は一人、草履の音を鳴らしながら長屋へ向かう。
けれど、胸の奥は静かなざわめきでいっぱいだった。
(わたし……この方を、好きになっている……?)
思えば、誰かをこんなふうに“ゆっくりと”好きになるのは、初めてだった。いや、でもそんなわけない。
高雅との結婚は、親が決めたもので、感情は置き去りだった。
けれど、惟道と過ごすこの時間は、まるで香のように、心に少しずつ染みていく。
どこか照れくさくて、でも嬉しくて、ほんのりと温かい。
それは“恋”というより、“慕情”と呼びたくなるような想いだった。
長屋に戻ると、セツが煮込みの鍋をかき混ぜていた。
「おかえりなさいませ、お嬢さま。……なんだか、お顔が桜色ですわねぇ」
「え……っ!? そんな、ただ香を聞いてきただけですのに……っ」
湯気の向こうで笑うセツの顔に、志野子は真っ赤になって目を逸らした。セツと煮物の鍋を変わる。
この女中は、昔からこういう勘がやけに鋭い。
「その“香”、……もう少し焚かれたいのでは?」
「セツ!」
「はいはい、煮物に気をつけて。焦げたら、香どころではありませんよ」
志野子は、自分の鼓動をごまかすように、湯気の立つ鍋を覗き込んだ。
けれど、湯気の向こうにいる自分の顔が、どうしようもなく笑っていることに気づいてしまい、少しだけ胸がくすぐったかった。



