その日の稽古が終わり、惟道が志野子に茶を差し出した。
器は、志野子が選んだもの。縁が少し欠けた、でも手にすっと馴染む湯呑み。
「……これは、昔、奥さまが使っていたものでしょう?」
「はい。けれど、彼女は“使い古しが一番”という人でした」
惟道の言葉には、悲しみよりも“愛着”がこもっていた。
失った人を語るその姿に、志野子はほんの少し、心が揺れた。
「……先生は、奥さまを今でもお慕いなのですね」
自分でも、なぜそんな言葉を口にしたのか分からなかった。
けれど惟道は、驚いたように瞬き、そして――静かに首を横に振った。
「過去は、香と同じです。……ふと漂ってきても、手では掴めない。掴もうとすると、煙になる。だから私は、ただ“覚えて”います。それに彼女とは政略結婚でした」
“覚えている”――それは、今を生きるための選択だ。
惟道は、過去に囚われているのではない。
過去を「ひとつの香り」として心に置き、それでも前に進もうとしている。
その姿が、胸を締めつけるほどに美しいと思った。



