春は、香りとともに。




春がきていた。
まるで夢のように、そっと、音もなく。

庭の枝垂れ桃がやさしい色を灯し、
縁側には朝日がやわらかく差していた。
若干膨らみ始めたお腹を手で包みながら、志野子はその景色に見入っていた。



「きれいですね……」


小さくこぼれた声は、どこか遠い昔の夢をなぞるようだ。


「花のことか、君のことか」


背後から、低く落ち着いた惟道の声がした。

志野子がくるりと振り返ると、彼は湯呑をふたつ手に持っていた。
片方を渡されて、湯気の向こうのまなざしにふと胸があたたかくなる。


「……お上手ですね」
「本心だ」
「……それは、惟道さんがそばにいてくれるからです」


少し微笑んで言うと、惟道は湯呑を口に運びながらも、その目を細めた。


「なんだか夢みたいです。こうして家にいて、お腹に新しい命を抱えているなんて。今の私が昔の私に会いに行って聞いたら、きっと驚きます」

「私のほうが驚いているよ。君のような人が、私のそばにいてくれるなんて」


その言葉に、志野子は思わず目を伏せた。
けれど惟道の手が、そっと彼女の膝に触れる。



「……君の笑顔が、こうして隣にある日々が、
私にとっては、宝物のようなんだ」


そのまなざしは、決して若くはない。
でも、誰よりも深く、静かな熱を持っている。