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寝間の明かりを落とすと、部屋の隅に置かれた香炉からかすかに白檀の香が漂った。惟道先生は布団に背を預けながら、私の手をとってそっと引き寄せた。
「寒くありませんか」
「はい……惟道さんのそばは、あたたかいから」
そう答えると、彼はわずかに目を細めて、私の額へそっと口づけを落とした。
あの日、初めてこの人に抱かれてから、まだ数日しか経っていない。けれど、不思議と心は落ち着いていて、まるで長く夫婦でいたような感覚さえ覚える。
――いや、夫婦であることに、私は今ようやく心から満たされているのかもしれない。
春の夜風が障子越しにすり抜けていく。
灯りのない闇の中で、先生の指先が私の手の甲を撫でていた。
それはまるで、言葉よりも多くの想いを伝えてくれる。
「志野子さん、ひとつ……聞いてもいいですか」
「はい」
「……もし、私が今より何も持っていなかったとしても。たとえば、家元でも、香道家でもなかったとしても……あなたは隣にいてくれましたか?」
私は少しだけ目を見開いてから、すぐに微笑んだ。
「あなたがあなたでいてくださるなら、それだけで充分です。わたしにとって大切なのは……肩書きや立場じゃなくて、あなたそのものですから」
その返事に、惟道はしばらく何も言わなかった。
けれど、私の手をいっそう強く握り、胸元へと引き寄せた。
「……ありがとう、志野子さん。こんなにも、心が救われる言葉をもらったのは初めてです」



