志野子は、言葉を失った。
自分の“中身”を見透かされた気がした。
しかもそれは、見下ろすような視線ではなく、同じ高さから静かに向けられたものだった。
「……先生、私は」
唇が震える。
「私は……もう、華族でもなければ、誰かの誇りでもありません。誇れるのは、毎朝、味噌汁の味を整えて、着物を繕って、セツと笑い合っている日々くらいで……」
泣いてはいけない、と思った。
けれど、ぽたりと落ちた涙が、着物の膝に濃く染みた。
惟道は、香炉の火をゆっくりと落とし、香の器に蓋をした。
そして静かに、志野子の隣に座った。
「その“日々”が、どれほど尊いものか……私は知っています」
その言葉が、香りのように染み込んでくる。
言葉にならぬまま、志野子は頷いた。
その頷きは、“再婚”の返事ではない。
ただ、心の奥にある“香りの記憶”を、再び確かめたいという、静かな決意だった。



