春は、香りとともに。




 ――昨夜、最後に残していた一つの桐箪笥を、隣の商人に売り払った。
 中には、志野子がかつて着ていた、絹のドレスやレースのブラウス、襟の硬い外套が入っていた。
 名家のご令嬢として、写真雑誌にも載ったころの輝きが、そこには詰まっていた。

 セツは、売る前に言った。


「これだけは……残しておいたほうが、よろしゅうございませんか」


 けれど志野子は首を振った。


「これは、いまの私には、似合いませんもの」


 売られた桐箪笥が、軋む音を立てて運び出されるのを、志野子は黙って見送った。
 それはまるで、過去の自分――男爵家の令嬢だった自分を見送るような気がした。