春は、香りとともに。




 「……惟道さん?」

 「……いえ、なんでもありません」


 拭いていた皿を落としそうになる。
 自分でも笑ってしまうほど動揺していた。


 「先生、まさか……思い出してるんですか?」


 頬を染めながら言う彼女に、私は何も言えなかった。
 言葉の代わりに、ただ布巾を手から取り、皿の縁に唇を近づける仕草をした。


 「っ……もう!」


 彼女が顔を真っ赤にして台所を離れる姿に、私は小さく笑った。

 そのあと、志野子さんが庭に出たいと言い出した。


 「桜、もうすぐ散ってしまいますね」


 縁側に腰かけて、ふたり並んで桜を見上げる。
 花びらが、はらはらと舞っていた。


 「……来年も、この桜を一緒に見ましょう」


 私が言うと、彼女はしばらく無言で花を見つめたあと、
 ふわりと微笑んだ。